ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

盲目物語 (2)


あるひのこと、あまり肩がこつてならぬから、すこしれうじをしてほしいと仰つしやいますので、おせなかの方へまはりまして揉んでをりますと、おくがたはしとねのうへにおすわりなされ、脇息におよりあそばして、うつらうつらまどろんでいらつしやるのかと思はれましたが、さうではなくて、ときどきほつとといきをついていらつしやいます。かういふをりに、いぜんにはよくお話相手をいたしましたのに、ちかごろはめつたにお言葉のさがることなどもござりませんので、ただかしこまつてれうじをいたしてをりましたけれども、それがわたくしにはなんとなう氣づまりでなりませなんだ。ぜんたいめしひと申すものは、ひといちばいかんのよいものでござります。ましてわたくしは、ひごとよごと奧がたのあんまを仰せつかりまして、おからだの樣子がおほよそ分つてをりますので、おむねのなかのことまでがしぜんと手先へつたはつてまゐりますせゐか、だまつて揉んでをりますうちに、やるせないおもひがいつぱいにこみあげてまゐるのでござります。當時おくがたは二十をふたつみつおこえなされ、四人にあまるお子たちの母御(ははご)でいらつしやいましたけれども、根がおうつくしいおかたのうへに、つひぞいままでは苦勞といふ苦勞もなされず、あらいかぜにもおあたりなされたことがないのでござりますから、もつたいないことながら、そのにくづきのふつくらとしてやはらかなことと申したら、りんずのおめしものをへだてて揉んでをりましても、手ざはりのぐあひがほかのお女中とはまるきりちがつてをりました。もつともこんどは五たびめのお產でござりましたから、さすがにいくらか(やつ)れていらつしやいましたものの、おやせになればおやせになるで、その骨ぐみの世にたぐひもなくきやしやでいらつしやることはおどろくばかりでござりました。わたくし、じつに、このとしになりますまで、ながねんのあひだもみれうじを渡世にいたし、おわかいお女中さまがたをかずしれず手がけてまゐりましたが、あれほどしなやかなからだのおかたをいらうたことがござりませぬ。それに、おんはだへのなめらかさ、こまかさ、お手でもおみあしでもしつとり露をふくんだやうなねばりを持つていらしつたのは、あれこそまことに玉の(はだへ)と申すものでござりませうか。おぐしなども、お產をしてからめつきりと薄うなつたと、ごじしんでは仰つしやつていらつしやいましたが、それでもふさふさとうしろに垂らしていらつしやるのが、普通のひとにくらべたらうつたう(鬱陶)しいくらゐたくさんにおありになつて、一本一本きぬいとをならべたやうな、細い、くせのない、どつしりとおもい毛のたばが、さらさらと(きぬ)にすれながらお背なかいちめんにひろがつてをりまして、お肩を揉むのにじやまになるほどでござりました。なれども、このたふとい上﨟(じやうらふ)のおみのうへもおしろがらくじやうするときはどうなるだらうか。このたまのおんはだへも、たけなすくろかみも、かぼそいほねをつつんでゐるやはらかい肉づきも、みんなおしろのやぐらといつしよにけぶりになつてしまふのだらうか。ひとのいのちをうばふことがせんごくの世のならひなればとて、こんないたいけなおうつくしいかたをころすといふ法があるものだらうか。のぶなが公もげんざい血をわけたいもうと御を、たすけておあげなさらうといふおぼしめしはないものか。まあわたくしのやうなものが、そんなしんぱいをしましたからとておよばぬことでござりますけれども、えんあつておそばにおつかへ申し、なんのしあはせかめしひと生れましたばかりにこのやうなおかたのおんみに手をふれ、あさゆふおこしをもませていただいてをりまして、ただそれのみをいきがひのある仕事とぞんじてをりましたのに、もうその御奉公もいつまでだらうかとかんがへましたら、このさきなんのたのしみもなくなりまして、にはかに胸がくるしうなつてまゐりました。するとおくがたが又ほつとためいきをあそばして、
「彌市」
と、およびになるのです。わたくし、おしろの中では、「坊主、坊主」といはれてをりましたが、「ただ坊主ではいけぬ」と仰つしやつて、おくがたから「彌市」といふ名をいたゞいてをつたのでござります。
「彌市、どうしたのだえ。」
と、そのときかさねてのお言葉に、
「はつ」
と申して、おどおどいたしてをりますと、「いつかう力がはひらぬではないか、もそつときつうもんでおくれ。」
と仰つしやるのでござります。わたくしは、
「おそれいりました。」
と申しあげて、さてはいらざる取りこしくらうに手の方がおろそかになつたかと、氣を入れかへてせつせともんでをりました。なれどもけふはとくべつにお肩がこつていらしつて、おんえりくびのりやうがはに手毬ほどのまるいしこりがおできになつてをりまして、もみほごすのがなかなかなのでござります。まあ、ほんたうに、これではさぞかしおつらからう、こんなにお()りになるといふのは、きつといろいろなものあんじをあそばして、よるもろくろくおやすみにならぬせゐではないか、おいたはしいことだわいと、お察し申しあげてをりますと、
「彌市」
と仰つしやつて、
「お前、いつまでこのしろのなかにゐるつもりなのだえ。」
と、仰つしやるのでした。
「はい、わたくしは、いつまででも御奉公をいたしてをりたうござります。ふつつかなものでござりますから、おやくにはたちませぬが、ふびんにおぼし下されまして召しつかつていただけましたら有りがたいことでござります。」
さう申しあげましたら、
「さうかえ」
と仰つしやつたなり、しばらくしづんでいらしつて、
「それでもお前、知ってのとほりおほぜいの者がいつのまにか一人へり二人へりして、もうおしろにはいくにんも殘つてゐないのですよ。りつぱな武士でさへ(しゆう)をみすてておちてゆくのに、さむらひでもないものがたれにゑんりよをすることがあらう。ましておまへは眼がふじいう(不自由)なのだから、まごまごしてゐるとけがをしますよ。」
と仰つしやるのです。
「おほせはありがたうござりますが、おしろを捨てるのもふみとどまるのも、それはひとびとのこころまかせでござります。まなこさへあいてをりましたら、(よる)にまぎれておちのびることもできませうけれども、このやうに四方をかこまれてをりましてはたとひおいとまをいただきましてもわたくしには逃げるみちがござりませぬ。どうせ數ならぬめくら法師ではござりますが、なまなかてきにとらへられてなさけを受けるのはいやでござります。」
すると、なんともおことばはなくて、そつとおんなみだをおふきになつたらしう、ふところからたたうがみをお出しになるおとがさらさらときこえました。わたくし、じぶんの身よりもおくがたはどうあそばすおつもりか、いづこ迄もながまさ公とごいつしよにおいであそばすのか、五人のお子たちをいとほしうおぼしめしたら、また御れうけんもおありになりはしないかと、こころではやきもきいたしましたが、そんなことをさしでがましう伺ふわけにもまゐりませぬし、それきりおこゑもかかりませぬので、ついつぎほがなくて、ひかへてしまつたのでござりました。

それが、あのせきたふの御供養のありました二日ほどまへのことでござりまして、八ぐわつ二十七日のあけがた、さむらひがたの燒香をおうけになりますと、こんどはおくがたや、お子たちや、腰元衆や、わたくしどもまでをそこへおめしになりまして、「さあ、おまへたちも回向をしておくれ」と仰つしやるのでござりました。なれどもいざとなりますと、お女中がたのかなしみは又かくべつでござりまして、ああ、それではいよいよお城のうんめいがきはまつて、とのさまはうちじにあそばすのかとどなたも途方にくれるばかりで、一人もせうかうの席へすすまうとはなさりませぬ。このにさんにち寄せ手は一そうはげしくせめてまゐりまして、ひるもよるも合戰のたえまはござりませなんだが、けさはさすがに敵もいくらか手をゆるめたとみえまして、お城のうちもそともしんとして、大ひろまの中は水をうつたやうにしづかでござります。をりふし秋もなかばのことでござりまして、あふみの國もほつこくにちかい山の上の、夜もあけきらぬほどの時こくでござりますから、まつざにひかへてをりますと、肌さむいかぜがひえびえと身にしみ、お庭の方でくさばにすだくむしのねばかりがぢいぢいときこえるのでござります。と、ふいに廣間のすみの方で、どなたか一人しくしくとすすりなきをはじめましたら、それまでじつとこらへていらしつたおほぜいの衆が、あちらでもこちらでも、いちどにしくしくと泣き出されましたので、ぐわんぜないお子たちまでがこゑをあげてお泣きになりました。「これ、これ、そなたはいちばんとしかさのくせに泣くといふことがありますか、かねがね云うてきかせたのはここのことではありませぬか」と、おくがたはこんなときにも取りみだした御樣子がなく、しつかりしたおこゑでお茶茶どのをお叱りになつて、嫡男萬福丸どのの乳母(うば)をお呼びになりまして、「さあ、和子から先にせうかうをするのですよ」と仰つしやるのです。それでいちばんに萬福丸どの、二ばんには當歲の(わか)が御燒香をすまされますと、「お茶茶、そなたの番ですよ」と仰せられましたが、
「いや、姫よりもそなたはなぜしないのだ」と、ながまさ公がきつとなつて仰せられるのでした。おくがたはただ「はいはい」と口のうちで仰つしやるばかりで、なかなか承引なされませぬので、
「あれほど申しきかせたことがなぜ分らぬ。この期におよんで云ひつけにそむくつもりか」と、つねづねおくがたにはおやさしいおかたが、ことさらあらあらしく仰つしやるのでござりますけれども、
「おぼしめしはかたじけなうござりますが、」
と、かたくけつしんをあそばして、座を立たうとはなさりませなんだ。そのときながまさ公はだいおんをおあげになつて、
「やあ、その方をんなのみちを忘れたか。わがなきあとの菩提をとぶらひ、子どものせいじんをみとどけるこそ、つまたるものの勤めではないか。そこの道理がわからぬやうではみらいえいごふ(永劫)妻とはおもはぬ、夫とも思つてもらはぬぞ。」
と、するどくお叱りになりました。そのおこゑがひろまのすみずみへりんりんとひびきわたりましたので、いちどうはつといたしまして、どうなることかといきをころしてをりますと、しばらくなんのものおともござりませなんだが、やがてさやさやと疊のうへにお召しもののすれるけはひがいたしましたのは、こころならずも奧がたがごせう香をなされたのでござりました。それから一のひめぎみのお茶茶どの、二の姫ぎみのおはつどの、三のひめ君の小督(こがう)どのと、しだいに御ゑかうをなされましたので、そのよのかたがたもとどこほりなく濟まされたのでござります。

さてその石たふをはこび出してこすいにしづめましたことは、せんこく申し上げたとほりでござります。おくがたはひとびとの手まへ、いつたんはおききいれになりましたものの、殿が御しやうがいあそばすのに、わがみひとり世にながらへてなんとしようぞ、あれこそ淺井のにようばうよと人にうしろゆびをさされるのはくちをしうござります、ぜひ死出のみちづれをさせて下されと、よもすがら搔きくどかれて、いつかな御しよういんなさるけしきもなかつたさうにござります。するとあくる二十八にちの巳の刻ごろに、織田どののおんつかひ不破河內のかみどのが三度目におこしになりまして、いま一ぺんかんがへなほして降人に出る氣はないかと、のぶなが公のおことばをつたへましたのでござります。ながまさ公はかさねがさねのおぼしめし、しやうじやう世々わすれがたくは存じますが、じぶんはどうあつてもこのしろにおいてはらを切ります、ただし妻とむすめどもはをんなのことなり、のぶなが公にちすぢのつながるものどもでござれば、申しふくめてあとより送りとどけます、せつかくのおなさけにあのものたちのいのちをゆるして、あとあとのせわを見てやつて下さればありがたう存じますと、いんぎんにおたのみなされまして、一とまづかわちの守どのをおかへしになり、それから又おくがたへだんだんと御いけんをなされたらしうござります。もとよりながまさ公とても、あれほどおむつまじいおん語らひでござりましたから、死なばもろともと覺悟をなされたおくがたのおんこころねを何しに憎く思しめしませう。おもへばおふたりが御えんぐみをあそばしてから、ことしで足かけ六ねんと申すみじかいおんちぎりでござります。そのあひだしじゆう世の中がさわがしく、あるときはとほく都や江南の御陣へお出かけになつたりしまして、いちにちとしてあんらくにおすごしあそばしたこともないのでござりますから、おなじはちすのうてなの上でいつまでも仲ようくらしたいとおのぞみになるのも、決してごむりではござりませぬ。なれどもながまさ公は勇あるおかたのつねとしてひとしほおん憐れみがふかうござりまして、おとしのわかいおくがたをむざむざころしてしまふことがあまりおいたはしく、なんとかしていのちをたすけてあげたいとおぼしめされ、ことにはお子たちのゆくすゑなども御あんじあそばしたのでござりませう。まあいろいろにしなをかへて道理をおときになつたものとみえまして、やうやうおくがたも御とくしんあそばし、ひめぎみばかりをおつれになつておさとへお歸りあそばすことにきまつたのでござります。をとこのお子たちはまだいとけなうござりましたけれども、敵の手におちてはあやふいと申されて、總りやうのまんぷく丸どのはゑちぜんのくに敦賀郡のしるべをたよりに、二十八日の(よる)おそく、きむら喜內之介と申す小姓をつけてそつとおしろからお出しになり、すゑの若ぎみは、當國の福田寺へあづけられることになりまして、これもその()のうちに、小川傳四郞中島左近と申すさむらひ二人に乳母がつきそうて、ふくでん寺のちかくの湖水のきしに船をよせられ、しばらく蘆のしげみのあひだにひそんでをられたと申すことでござります。

おくがたは二じふはち日の夜ひとよ、ながまさ公とおんわかれの盃をおかはしになりましたが、つきぬおん名殘りにさまざまのおんものがたりをあそばすうちに、秋の夜ながもいつのまにかあけてしまひましたので、それではと申されて、ひがしの方がもうしらじらとあかるい時分、おしろの門からおのりものにおめしになりました。つづく三つのお乘りものにはさんにんの姫たちが乳母とごいつしよにお召しになりまして、藤掛三河守と申す、お輿入れのをり織田家からついてまゐりました奧向きの御けらいが、てぜいをつれて前後をおまもり申し上げ、そのほかに二三十人のお女中がたがおともをいたして小谷をあとになされました。ながまさ公は御のりもののきはまでおみおくりに出られまして、そのあさはもうこれを最後の御しやうぞくで、くろいとおどしのおんよろひにきんらんの袈裟をかけていらしつたさうでござります。いよいよおのりものをかき上げますとき、「ではあとをたのんだぞ、たつしやでくらせよ」とおことばをおかけになりましたのがゆうきのはりきつたさはやかなおこゑでござりました。おくがたも「おこころおきなう御りつぱなおはたらきを」と、氣ぢやうにおつしやつて、おんなみだをおみせにならずに、じつとがまんをなされましたのはさすがでござります。すゑのおふたりのひめぎみたちは西もひがしもおわかりにならぬほどでござりましたから、お()の人の手におだかれになつて、なんのこととも夢中でいらつしやいましたけれども、おちやちやどのはててご(父御)の方をふりかへりふりかへり、いやぢやいやぢやときつうおむづかりになりまして、なかなかなだめすかしてもお泣きやみになりませんので、お供のひとびとはそれをみるのが何よりつらうござりました。この姫たちが三人ながらのちに出世をあそばして、お茶茶どのが淀のおん方、おはつどのが京極さいしやうどののおん奧方常高院どの、いちばんすゑの小督(こがう)どのが忝くもいま將軍家のみだいでおはしますことを、だれがそのときおもひましたでござりませう。かへすがへすも御運の末はわからぬものでござります。