その五 國栖
さて此れからは私が間接に津村の話を取り次ぐとしよう。
さう云ふ譯で、津村が吉野と云ふ土地に特別のなつかしさを感ずるのは、一つは千本櫻の芝居の影響に依るのであるが、一つには、母は大和の人だと云ふことをかねがね聞いてゐたからであつた。が、大和の何處から貰はれて來たのか、その實家は現存してゐるのか等のことは、久しく謎に包まれてゐた。津村は祖母の生前に出來るだけ母の經歷を調べておきたいと思つて、いろいろ尋ねたけれども、祖母は何分にも忘れてしまつたと云ふことで、はかばかしい答は得られなかつた。親類の誰彼、伯父伯母などに聞いてみても、母の里方については、不思議に知つてゐる者がなかつた。ぜんたい津村家は舊家であるから、あたりまへなら二代も三代も前からの緣者が出入りしてゐる筈であるが、母は實は、大和からすぐ彼の父に嫁いだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ賣られ、そこから一旦然るべき人の養女になつて輿入れをしたらしい。それで戶籍面の記載では、文久三年に生れ、明治十年に十五歲で今橋三丁目浦門喜十郞の許から津村家へ嫁ぎ、明治二十四年に二十九歲で死亡してゐる。中學を卒業する頃の津村は、母に關してやうやう此れだけのことしか知らなかつた。後から考へれば、祖母や親戚の年寄たちが餘り話してくれなかつたのは、母の前身が前身であるから、語るを好まなかつたのであらう。しかし津村の氣持では、自分の母が狹斜の巷に生ひ立つた人であると云ふ事實は、ただなつかしさを增すばかりで別に不名譽とも不愉快とも感じなかつた。まして緣づいたのが十五の歲であるとすれば、いかに早婚の時代だとしても、恐らく母はそういふ社界の汚れに染まる度も少く、まだ純眞な娘らしさを失つてゐなかつたであらう。それなればこそ子供を三人も生んだのであらう。そして初初しい少女の花嫁は、夫の家に引き取られて舊家の主婦たるにふさはしいさまざまな躾を受けたであらう。津村は嘗て、母が十七八の時に手寫したと云ふ琴唄の稽古本を見たことがあるが、それは半紙を四つ折りにしたものへ橫に唄の詞を列ね、行間に琴の譜を朱で丹念に書き入れてある、美しいお家流の筆蹟であつた。
そののち津村は東京へ遊學したので、自然家庭と遠ざかることになつたが、そのあひだも母の故鄕を知りたい心は却つて募る一方であつた。有りていに云ふと、彼の靑春期は母への思慕で過ぐされたと云つてよい。行きずりに遇ふ町の女、令孃、藝者、女優、───などに、淡い好奇心を感じたこともないではないが、いつでも彼の眼に止まる相手は、寫眞で見る母の俤に何處か共通な感じのある顏の主であつた。彼が學校生活を捨てて大阪へ歸つたのも、あながち祖母の意に從つたばかりでなく、彼自身があこがれの土地へ、───母の故鄕に少しでも近い所、そして彼女がその短かい生涯の半分を送つた島の內の家へ、───惹き寄せられた爲めなのである。それに何と云つても母は關西の女であるから、東京の町では彼女に似通つた女に會ふことが稀だけれども、大阪にゐると、ときどきさう云ふのに打つかる。母の生ひ育つたのはただ色町と云ふばかりで、何處の土地とも分らないのが恨みであつたが、それでも彼は母の幻に會ふために花柳界の女に近づき、茶屋酒に親しんだ。そんなことから方々に岡惚れを作つた。「遊ぶ」と云ふ評判も取つた。けれども元來が母戀ひしさから起つたのに過ぎないのだから、一遍も深入りをしたことはなく、今日まで童貞を守り續けた。
かうして二三年を過すうちに祖母が死んだ。
その、祖母が亡くなつた後の或る日のことである。形見の品を整理しようと思つて土藏の中の小袖簞笥の抽き出しを改めてゐると、祖母の手蹟らしい書類に交つて、つひぞ見たことのない古い書付けや文反古が出て來た。それはまだ母が勤め奉公時代に父と母との間に交された艷書、大和の國の實母らしい人から母へ宛てた手紙、琴、三味線、生け花、茶の湯等の奧許しの免狀などであつた。艷書は父からのものが三通、母からのものが二通、初戀に醉ふ少年少女のたわいのない睦言の遣り取りに過ぎないけれども、互ひに人目を忍んでは首尾してゐたらしい樣子合ひも見え、殊に母のものは「………おろかなりし心より思し召しをかへりみず文さし上候こなた心少しは御汲分け………」とか「ひとかたならぬ御事のみ仰下されなんぼうか嬉しくぞんじ色々耻かしき身の上迄もお咄申上げ………」とか、十五の女の兒にしては、筆の運びこそたどたどしいものの、さすがにませた言葉づかひで、その頃の男女の早熟さが思ひやられた。次に故鄕の實家から寄越したのは一通しかなく、宛名は「大阪市新町九軒粉川樣內おすみどの」とあり、差出人は「大和國吉野郡國栖村窪垣內昆布助左衞門內」となつてゐて、「此度其身の孝心をかんしん致候ゆへ文して申遣し參らせ候*1左候へば日にまし寒さに向い候へ共いよ〳〵かわらせなく相くらされ此かたも安心いたし居候とゝさんと申かゝさんと申誠に〳〵難有………」と云ふやうな書き出しで、館の主人を親とも思ひ大切にせねばならぬこと、遊藝のけいこに身を入れること、人の物を欲しがつてはならぬこと、神佛を信心することなど、敎訓めいたことのかずかずが記してあつた。
津村は土藏の埃だらけな床の上にすわつたまま、うす暗い光線で此の手紙を繰り返し讀んだ。そして氣がついた時分には、いつか日が暮れてゐたので、今度はそれを書齋へ持つて出て、電燈の下にひろげた。むかし、恐らくは三四十年も前に、吉野郡國栖村の百姓家で、行燈の燈影にうづくまりつつ老眼の脂を拂ひ拂ひ娘のもとへこまごまと書き綴つてゐたであらう老媼の姿が、その二たひろにも餘る長い卷紙の上に浮かんだ。文の言葉や假名づかひには田舍の婆が書いたらしい覺つかないふしぶしも見えるけれども、文字はそのわりに拙くなく、お家流の正しい崩し方で書いてあるのは、滿更の水呑み百姓でもなかつたのであらう。が、何か暮らし向きに困る事情が出來て、娘を金に替へたのであることは察せられる。ただ惜しいことに十二月七日とあるばかりで、年號が書き入れてないのだが、多分此の文は娘を大阪へ出してからの最初の便であらうと思はれる。しかしそれでも老い先短かい身の心細く、ところどころに「これかかさんのゆい言ぞや」とか、「たとへこちらがいのちなくともその身に付そひ出せいをいたさせ候間」などと云ふ文句が見え、何をしてはならぬ、彼をしてはならぬと、いろいろと案じ過して諭してゐる中にも、面白いのは、紙を粗末にせぬやうにと、長々と訓戒を述べて、「此かみもかゝさんとおりとのすきたる紙なりかならず〳〵はだみはなさず大せつにおもふべし其身はよろづぜいたくにくらせどもかみを粗末にしてはならぬぞやかゝさんもおりとも此かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるよふにてたんと〳〵苦ろふいたし候」と、二十行にも亙つて書いてゐることである。津村はこれに依つて、母の生家が紙すきを業としてゐたのを知り得た。それから母の家族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云ふ婦人のあることが分つた。尙その外に「おえい」と云ふ婦人も見えて、「おえいは日々雪のつもる山に葛をほりに行き候みなしてかせぎためろぎん出來候へば其身にあいに參り候たのしみいてくれられよ」とあつて、「子をおもふおやの心はやみ故にくらがり峠のかたぞこひしき」と、最後に和歌が記されてゐた。
此の歌の中にある「くらがり峠」と云ふ所は、大阪から大和へ越える街道にあつて、汽車がなかつた時代には皆その峠を越えたのである。峠の頂上に何とか云ふ寺があり、そこがほととぎすの名所になつてゐたから、津村も一度中學時代に行つたことがあつたが、たしか六月頃の或る夜の、まだ明けきらぬうちに山へかかつて、寺でひと休みしてゐると、曉の四時か五時頃だつたらう、障子の外がほんのり白み初めたと思つたら、何處かうしろの山の方で、不意に一と聲ほととぎすが啼いた。するとつづいて、その同じ鳥か、別なほととぎすか、二た聲も三聲も、───しまひには珍しくもなくなつた程啼きしきつた。津村は此の歌を讀むと、ふと、あの時は何でもなく聞いたほととぎすの聲が、急にたまらなくなつかしいものに想ひ出された。そして昔の人があの鳥の啼く音を故人の魂になぞらへて、「蜀魂」と云ひ「不如歸」と云つたのが、いかにも尤もな聯想であるやうな氣がした。
しかし老婆の手紙について津村が最も奇しい因緣を感じたことが外にあつた。と云ふのは、此の婦人、───彼の母方の祖母にあたる人は、その文の中に狐のことをしきりに說いてゐるのである。「………ずいぶん〴〵これからは御屋しろの稻荷さまと白狐の命婦之進とをまいにち〳〵あさ〳〵はおかむべし左候へばそちの知ておる通りとゝさんがよべば狐のあのよふにそばへくるよふになるもみないつしんの有るゆへなり………」とか、「それゆへこの度のなんもまつたく白狐さまのお蔭とぞんじ參らせ候*2是からは其御內の武運長久あしきやまいなきよふのきとう每日〳〵いたし參らせ候*3隨分〳〵と信心可被成………」とか、そんなことが書いてあるのを見ると、祖母の夫婦は餘程稻荷の信仰に凝り固まつてゐたことが分る。察するところ「御屋しろの稻荷さま」と云ふのは、屋敷のうちに小さな祠でも建てて勸進してあつたのではないか。そしてその稻荷のお使ひである「命婦之進」と云ふ白狐も、何處かその祠の近くに巢を作つてゐたのではないか。「そちの知ておる通りとゝさんがよべば狐のあのよふにそばへくるよふになるも」とあるのは、ほんたうにその白狐が祖父の聲に應じて穴から姿を現はすのか、それとも祖母になり祖父自身になり魂が乘り移るのか明かでないが、祖父なる人は狐を自由に呼び出すことが出來、狐はまたこの老夫婦の蔭に附添ひ、一家の運命を支配してゐたやうに思へる。
津村は「此かみもかゝさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもふべし」とあるその卷紙を、ほんたうに肌身につけて押し戴いた。少くとも明治十年以前、母が大阪へ賣られてから間もなく寄越された文だとすれば、もう三四十年は立つてゐる筈のその紙は、こんがりと遠火にあてたやうな色に變つてゐたが、紙質は今のものよりもきめが緻密で、しつかりしてゐた。津村はその中に通つてゐる細かい丈夫な纖維の筋を日に透かして見て、「かゝさんもおりとも此かみをすくときはひゞあかぎれに指のさきちぎれるよふにてたんと〳〵苦ろふいたし候」と云ふ文句を想ひ浮かべると、その老人の皮膚にも似た一枚の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血が籠つてゐるのを感じた。母も恐らくは新町の館で此の文を受け取つた時、やはり自分が今したやうに此れを肌身につけ、押し戴いたであらうことを思へば、「昔の人の袖の香ぞする」その文殼は、彼には二重に床しくも貴い形見であつた。
その後津村がこれらの文書を手がかりとして母の生家を突きとめるに至つた過程については、あまり管管しく書く迄もなからう。何しろその當時から三四十年前と云へば、ちやうど維新前後の變動に遭遇してゐるのだから、母が身賣りをした新町九軒の粉川と云ふ家も、輿入れの前に一時籍を入れてゐた今橋の浦門と云ふ養家も、今では共に亡びてしまつて行くへが分らず、奧許しの免狀に署名してゐる茶の湯、生け花、琴三味線等の師匠の家筋も、多くは絕えてしまつてゐたので、結局前に擧げた文を唯一の手がかりに、大和の國吉野郡國栖村へ尋ねて行くのが近道であり、又それ以外に方法もなかつた。それで津村は、自分の家の祖母が亡くなつた年の冬、百ケ日の法要を濟ますと、親しい者にも眞の目的は打ち明けずに、ひとり飄然と旅に赴く體裁で、思ひ切つて國栖村へ出かけた。
大阪と違つて、田舍はそんなに劇しい變遷はなかつた筈である。まして田舍も田舍、行きどまりの山奧に近い吉野郡の僻地であるから、たとひ貧しい百姓家であつても僅か二代か三代の間にあとかたもなくなるやうなことはあるまい。津村はその期待に胸を躍らせつつ、晴れた十二月の或る日の朝、上市から俥を雇つて、今日私たちが步いて來た此の街道を國栖へ急がせた。そしてなつかしい村の人家が見え出したとき、何より先に彼の眼を惹いたのは、此處彼處の軒下に乾してある紙であつた。恰も漁師町で海苔を乾すやうな工合に、長方形の紙が行儀よく板に竝べて立てかけてあるのだが、その眞つ白な色紙を散らしたやうなのが、街道の兩側や、丘の段段の上などに、高く低く、寒さうな日にきらきらと反射しつつあるのを眺めると、彼は何がなしに淚が浮かんだ。此處が自分の先祖の地だ。自分は今、長いあひだ夢に見てゐた母の故鄕の土を蹈んだ。此の悠久な山間の村里は、大方母が生れた頃も、今眼の前にあるやうな平和な景色をひろげてゐただらう。四十年前の日も、つい昨日の日も、此處では同じに明け、同じに暮れてゐたのだらう。津村は「昔」と壁一と重の隣りへ來た氣がした。ほんの一瞬間眼をつぶつて再び見開けば、何處かその邊の籬の內に、母が少女の群れに交つて遊んでゐるかも知れなかつた。
最初の彼の豫想では、「昆布」は珍しい姓であるから直きに分ることと思つてゐたのだが、窪垣內と云ふ字へ行つて見ると、そこには「昆布」の姓が非常に多いので、目的の家を搜し出すのに中々埒が明かなかつた。仕方がなく車夫と二人で昆布姓の家を一軒一軒尋ねたけれども、「昆布助左衞門」を名乘る者は、昔は知らず、今は一人もゐないと云ふ。やうやうのことで、「それなら彼處かも知れない」と、とある駄菓子屋の奧から出て來た古老らしい人が緣先に立つて指さしてくれたのは、街道の左側の、小高い段の上に見える一と棟の草屋根であつた。津村は車夫を菓子屋の店先に待たして置いて、往來からだらだらと半町ばかり引つ込んだ爪先上りの丘の路を、その草屋根の方へ登つて行つた。めつきりと冷える朝ではあつたが、そこはうしろになだらかな斜面を持つた山を繞らした、風のあたらない、なごやかな日だまりになつた一廓で三四軒の家が孰れも紙をすいてゐた。坂を登つて行く津村は、それらの丘の上の家々から若い女たちがちよつと仕事の手を休めて、この邊に見馴れない都會風の靑年紳士が上つて來るのを、珍しさうに見おろしてゐるのに氣づいた。紙をすくのは娘や嫁の手業になつてゐるらしく、庭先に働いてゐる人たちは殆ど皆手拭ひを姐さん被りにしてゐた。津村はその、紙や手拭ひの冴え冴えとした爽やかな反射の中を、敎へられた家の軒近く立つた。見ると、標札には「昆布由松」とあつて、助左衞門と云ふ名は記してない。母家の右手に、納屋のやうな小屋が建つてゐて、そこの板敷の上に十七八になる娘がつくばひながら、米の硏ぎ汁のやうな色をした水の中へ兩手を漬けて、木の枠を篩つてはさつと掬ひ上げてゐる。枠の中の白い水が、蒸籠のやうに作つてある簾の底へ紙の形に沈澱すると、娘はそれを順繰りに板敷に並べては、やがて又枠を水の中へ漬ける。表へ向いた小屋の板戶が明いてゐるので、津村は一と叢の野菊のすがれた垣根の外に彳みながら、見る間に二枚三枚と漉いて行く娘のあざやかな手際を眺めた。姿はすらりとしてゐたが、田舍娘らしくがつしりと堅太りした、骨太な、大柄な兒であつた。その頬は健康さうに張り切つて、若さでつやつやしてゐたけれども、それよりも津村は、白い水に浸つてゐる彼女の指に心を惹かれた。成る程、これでは「ひびあかぎれに指のさきちぎれるよふ」なのも道理である。が、寒さにいぢめつけられて赤くふやけてゐる傷々しいその指にも、日增しに伸びる歲頃の發育の力を抑へきれないものがあつて、一種いぢらしい美しさが感じられた。
その時、ふと注意を轉じると、母家の左の隅の方に古い稻荷の祠のあるのが眼に這入つた。津村の足は思はず垣根の中へ進んだ。そしてさつきから庭先で紙を乾してゐた此の家の主婦らしい二十四五の婦人の前へ寄つて行つた。
主婦は彼から來意を聞かされても、あまりその理由が唐突なので暫く遲疑する樣子であつたが、證據の手紙を出して見せると、だんだん納得が行つたらしく、「わたしでは分りませんから、年寄に會つて下さい」と、母家の奧にゐた六十恰好の老媼を呼んだ。それがあの手紙にある「おりと」───津村の母の姉に當る婦人だつたのである。
此の老媼は彼の熱心な質問の前にオドオドしながら、もう消えかかつた記憶の絲を手繰り手繰り齒の拔けた口から少しづつ語つた。中には全く忘れてゐて答へられないこと、記憶ちがひと思はれること、遠慮して云はないこと、前後矛盾してゐること、何かもぐもぐと云ふには云つても息の洩れる聲が聽き取りにくく、いくら問ひ返しても要領を摑めなかつたことなどが澤山あつて、半分以上は此方が想像で補ふより外はなかつたが、兎に角さう云ふ風にしてでも津村が知り得た事柄は、母に關する二十年來の彼の疑問を解くに足りた。母が大阪へやられたのは、たしか慶應頃だつたと婆さんは云ふのだけれども、ことし六十七になる婆さんが十四五歲、母が十一二歲の時だつたさうであるから、明治以後であることは云ふ迄もない。それゆゑ母は僅か二三年、多くも四年ほど新町に奉公しただけで、直きに津村家へ嫁いだことになる。おりと婆さんの口吻から察するのに、昆布の家は當時窮迫こそしていたものの、相當に名聞を重んずる舊家で、そんな所へ娘を勤めに出したことを成るべく隱してゐたのであらう。それで娘が奉公中は勿論のこと、立派な家の嫁になつた後までも、一つには娘の耻、一つには自分たちの耻と思つて、あまり往き來をしなかつたのであらう。又、實際にその頃の色里の勤め奉公は、藝妓、遊女、茶屋女、その他何であるにしろ、一旦身賣りの證文に判をついた以上、きれいに親許と緣を切るのが習慣であり、その後の娘は所謂「喰燒奉公人」として、どう云ふ風に成り行かうとも、實家はそれに係り合ふ權利がなかつたでもあらう。しかし婆さんのおぼろげな記憶に依ると、妹が津村家へ緣づいてから、彼女の母は一度か二度、大阪へ會ひに行つたことがあるらしく、今では大家の御料人樣に出世した結構づくめの娘の身の上を驚異を以て語つてゐた折があつた。そして彼女にも是非大阪へ出て來るやうにと言づてを聞いたけれども、そんな所へ見すぼらしい姿で上れる筈もなし、妹の方もあれなり故鄕を訪れたことがなかつたので、彼女はつひぞ成人してからの妹と云ふものを知らずにゐるうち、やがてその旦那樣が死に、妹が死に、彼女の方の兩親も死に、もうそれからは猶更津村家との交通が絕えてしまつた。
おりと婆さんはその肉親の妹、───津村の母のことを呼ぶのに「あなた樣のお袋さま」と云ふ廻りくどい言葉を用ゐた。それは津村への禮儀からでもあつたらうが、事に依ると妹の名を忘れてゐるのかも知れなかつた。「おえいは日々雪のふる山に葛をほりに行き候」とあるその「おえい」と云ふ人を尋ねると、それが總領娘で、二番目がおりと、末娘が津村の母のおすみであつた。が、或る事情から長女のおえいが他家へ緣づき、おりとが養子を迎へて昆布の跡を繼いだ。そして今ではそのおえいもおりとの夫も亡くなつて、此の家は息子の由松の代になり、さつき庭先で津村に應待した婦人がその由松の嫁であつた。そう云ふ譯で、おりとの母が存生の頃はすみ女に關する書類や手紙なども少しは保存してあつた筈だが、もはや三代を經た今日となつては、殆ど此れと云ふ品も殘つてゐない。───と、おりと婆さんはさう語つてから、ふと思ひ出したやうに、立つて佛壇の扉を開いて、位牌の傍に飾つてあった一葉の寫眞を持つて來て示した。それは津村も見覺えのある、母が晚年に撮影した手札型の胸像で、彼もその複寫の一枚を自分のアルバムに所藏してゐるものであつた。
「さう、さう、あなた樣のお袋さまの物は、───」
と、おりと婆さんはそれから又何かを思ひ出した樣子で附け加へた。
「この寫眞の外に、琴が一面ございました。此れは大阪の娘の形見だと申して、母が大切にしてをりましたが、久しく出しても見ませぬので、どうなつてをりますやら、………」
津村は、二階の物置きを搜したらあるだらうと云ふその琴を見せて貰ふために、畑へ出てゐた由松の歸りを待つた。そしてその隙に近所で晝食をしたためて來てから、自分も若夫婦に手を貸して、埃の堆い嵩張つた荷物を明るい緣先へ運び出した。
どうしてこんな物が此の家に傳はつてゐたのであらう、───色褪せた掩ひの油單を拂ふと、下から現れたのは、古びてこそゐるが立派な蒔繪の本間の琴であつた。蒔繪の模樣は、甲を除いた殆ど全部に行き亙つてゐて、兩側の「磯」は住吉の景色であるらしく、片側に鳥居と反橋とが松林の中に配してあり、片側に高燈籠と磯馴松と濱邊の波が描いてある。「海」から「龍角」「四分六」のあたりには無數の千鳥が飛んでゐて、「荻布」のある方「柏葉」の下に五色の雲と天人の姿が透いて見える。そしてそれらの蒔繪や繪の具の色は、桐の木地が時代を帶びて黑ずんでゐるために、一層上品な光を沈ませて眼を射るのである。津村は油單の塵を拭つて、改めてその染め模樣を調べた。地質は多分鹽瀨であらう、表は上の方へ紅地に白く八重梅の紋を拔き、下の方に唐美人が高樓に坐して琴を彈じている圖がある。樓の柱の兩側に「二十五絃彈月夜」「不堪淸怨却飛來」と、一對の聯が懸つてゐる。裏は月に雁の列を現はした傍に「雲みちによそへる琴の柱をはつらなる雁とおもひける哉」と云ふ文字が讀めた。
しかしそれにしても、八重梅は津村家の紋でないのであるが、養家の浦門家の紋か、あるいはひよつとすると、新町の館の紋ではなかつたのであらうか。そして津村家へ嫁ぐについて、不用になつた色町時代の記念の品を鄕里へ贈つたのではないか。恐らくその時分、實家の方に年頃の娘かなんぞがゐて、その兒のために田舍の祖母が貰ひ受けたと云ふことも考へられる。又さうでもなく、嫁いでからも長く島の內の家にあつたのを、彼女の遺言か何かに依つて國元へ屆けたとも想像される。が、おりと婆さんも若夫婦も、一向その間の事情に關して知るところはなかつた。たしか手紙のやうなものが附いてゐたと思ふけれども、今ではそれも見あたらない、ただ「大阪へやられた人」から讓られたものであることを聞き覺えてゐる、と云ふのみであつた。
別に、附屬品を收めた小型の桐の匣があつて、中に琴柱と琴爪とが這入つてゐた。琴柱は黑つぽい堅木の木地で、それにも一つ一つ松竹梅の蒔繪がしてある。琴爪の方は、大分使ひ込まれたらしく手擦れてゐたが、嘗て母のかぼそい指が箝めたであらうそれらの爪を、津村はなつかしさに堪へず自分の小指にあててみた。幼少の折、奧の一と間で品のよい婦人と檢校とが「狐噲」を彈いてゐたあの場面が、一瞬間彼の眼交を掠めた。その婦人は母ではなく、琴も此の琴ではなかつたかも知れぬけれども、大方母も此れを搔き鳴らしつつ幾度かあの曲を唄つたであらう。もし出來るならば自分は此の樂器を修繕させ、母の命日に誰か然るべき人を賴んで「狐噲」の曲を彈かせてみたい、と、その時から津村はさう思ひついた。
庭の稻荷の祠については守り神として代々祭つて來たのであるから、若夫婦たちもその手紙にあるものに相違ないことを確かめてくれた。尤も現在では家族の內に狐を使ふ者はゐない。由松が子供の頃、お祖父さんがよくそんなことをしたと云ふ噂を聞いたが、「白狐の命婦之進」とやらはいつの代にか姿を現はさないやうになり、祠のうしろにある椎の木の蔭にむかし狐が棲んでゐた穴が殘つてゐるばかりで、そこへ案內をされた津村は、穴の入口に今は淋しく注連繩が渡してあるのを見た。
───以上の話は、津村の祖母が亡くなつた年のことであるから、宮瀧の岩の上で彼が私に語つた時からは又二三年前に溯る事實である。そして彼がこの間中から私への通信に「國栖の親戚」と書いて來たのは、此のおりと婆さんの家を指すのであつた。と云ふのは、何と云つてもおりと婆さんは津村に取つて母方の伯母であり、彼女の家は母の實家に違ひないのだから、そののち彼は改めて此の家と親類の附き合ひを始めた。そればかりでなく、生計の援助もしてやつて、伯母のために離れを建て增したり、紙すきの工場を擴げたりした。そのお蔭で昆布の家は、ささやかな手工業ではあるけれども、目立つて手廣く仕事をするやうになつたのである。