中学生と塾で国語をやっていると、高浜虚子の例の
が出てきた。長い間鎌倉で虚子は暮らしていたが、最近『武藏野』を読み直したばかりなので、武蔵野の光景をこの句は詠んだのだなと直感的に思った。それで『武藏野』の文章を紹介した。
稻の熟する頃となると、谷々の水田が黃ばんで來る。稻が刈り取られて林の影が倒さに田面に映る頃となると、大根畑の盛で、大根がそろ〳〵拔かれて、彼方此處の水溜又は小さな流れの潯で洗はれる樣になると、野は麥の新芽で靑々となつて來る。
かと思うと、北原白秋の『からたちの花』が小学校の国語では出てきて、まずカラタチがどんな植物であるかの説明から始まって、山田耕筰の曲も聴いたことがないと言うので、その曲に触れない訳にはいかず (歌わない訳にはいかず)、なかなか忙しい。そうかと思うと、鈴木真砂女の
が出てきて、「くず餠」を知らない子どもにはどんな食べ物か教えないといけない。したがって、この「しめりし」の後の方の「し」をどう思うかなどという事に触れる余裕はない。「いろは歌」も「歴史的仮名遣ひ」も「動詞」「形容詞」「形容動詞」の見分け方も説明した。漢字は「終わる」を「終る」と書いて子どもから注意された。確かに「終える」「終わる」があるので、この場合については活用の語幹から送るのはあまり宜しくない (ただし、負け惜しみであるが許容範囲だと思う)。
デジタル万能の一時期の風潮に対して、その有害性を訴えることが最近は流行のようになっているが、蓮實重彥が「その程度のことを、たかが大学教授から教えてもらわねばデジタルをめぐる事態は進捗しないものなのだろうか」と、『ちくま』連載のエッセイに書いていてそこに笑った。ゲームをし過ぎて何処か別の世界にいるような子を見るとちょっと前は腹が立ったが、そんな時期はとうに過ぎて、せめて勉強の時間くらいは鉛筆を握って手を動かして、漢字でも英語の文章でもひたすらノートに書いてもらえばと願うだけである。記憶は、目と耳だけではなく、手でもするのだということは「たかが大学教授から教えてもらわねば」分からないものではなかろう。