ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

対髑髏 (全)

對髑髏
蝸牛露伴作

(一)

  • 旅に道連れの味は知らねど
  • 世は情けある女の事〳〵
  • 但しどこやらに怖い所あり難い所

我元來洒落といふ事を知らず數寄と唱ふる者にもあらで唯ふら〳〵と五尺の殼を負ふ蝸牛(でゞむし)の浮かれ心止み難く東西南北に這ひまはりて覺束なき角頭の眼に力の及ぶだけの世を見たく、いざさらば當世江口の君の宿()さず宇治の華族樣香煎湯一杯を惜しみ玉ふとも(かま)はじよ、里遠しいざ露と寐ん草まくらとは一歲(ひとゝせ)陸奧の獨り旅夜更けて野末に疲れたる時の吟、それより露伴と自號して、(やが)て脆くも下枝(しづえ)を落ちなば、摺附木となりて成佛する大木の蔭小暗き近邊(あたり)に何の功をも爲さざる苔の碧みを添へん丈の願ひにて、囈語(ねごと)にばかり滴水(しづく)とく〳〵試みに浮世そゝがばやと果敢(はか)なき僣上是れ無分別なる妄想の置き所、我から呆るゝほど定まらぬ魂魄宙宇に彷徨(さまよ)ひし三十年來、自ら笑ふ一生定力(ぢやうりき)なく行藏(かうざう)多くは業風に吹かると古人の遺されし金句に歲の市立つ冬の半夜、蝙蝠(かはほり)騷ぐ夏の夕暮などは膽を冷やし骨を焚く感じを起す事もありしが、三日坊主の一時精進、後はゆつたりのつたりにて丁度明治二十二年四月の頃は中禪寺の奧、白根が嶽の下、湯の(うみ)のほとりの客舍に五目竝べの修行を兼ねて病痾(やまひ)を養ひ居たりしに、有り難き溫泉()功能(きゝめ)、忽ち平癒するや否、丈夫素より存す衝天の氣などといきり出して元()し道を歸るを嫌ひ、御亭主是れから先へ行く道は無いかと問へば。どうも此處は行き留まりの山の中、見らるゝ通り前は前白根奧白根雲の上に頭を出して居る始末、登山は夏さへ(むつ)かし、其の續き橫手の方は魂淸峠と俗に呼ぶ木叢峠(こむらたうげ)、此の頂上は上野下野兩國の境界(さかひ)、山々折り(かさ)なりて當方より越ゆる六里の間に暖湯(ぬるゆ)飮むべき家もなし、殊更時候大分違ひて、大澤德次良(とくじら)あたりは野州の名花八汐の眞盛りなれど、此の近邉(あたり)はそれもまだ咲かず、況して峠は一面の雪、五尺六尺谷間には積り居りて道も碌には知れず、今年になつてから越した人は指の數に足らぬ位、とても遊び半分なぞに行かるべき(ところ)にあらず、御客樣是非もなし中禪寺までお戾りあつて足尾とか庚申山とか里近き孫山でも見物致されよとの言葉。おのれ我を都會(みやこ)育ちの柔弱者と侮つたりや、其の義ならば旋毛曲(つむじまが)りの根性天の邪鬼の意氣地(いきぢ)見せつけ吳れんと詰まらぬ事に僞勢張り、股引もなき細臑踏みはだけて。其の峠何程の事あらん、燒飯作れ草鞋買うて來よ、少しばかり難義でも同じ道を歸るより面白からんに鼻歌を山の神に聞かせて越えん。さて〳〵途方もない事、雪沓(ゆきぐつ)ならでは中々凍ゆべし、强ひてとならば國境まで案內者僦はるべし、然し名產の肉蓯蓉(にくじゆよう)取つて腎藥にでもせんとの御思召(おぼしめ)しならば時節惡し、醉興は要らぬ者と昔時(むかし)よりの敎へもあるものを。面倒な事、愚圖々々せずと我云ふ通りにせよ、案內者は僦ふべし雪沓も買ふべしと罵りて、裾其の儘にグイと端折り沓しつかりと穿()き締め、身の丈六尺計りの樵夫(こり)を案內として心いさましく登りける、四五町ばかり來て見れば成程人は噓つかぬ者、一面の雪表面(うはべ)は凍りて下は柔らかなり、段々と登り行く勾配急になり屢々滑るに少し(ひる)みて、見れば案內者は(しゝ)の毛皮の沓はきて鐵雪橇(かなかんじき)に踏み答へ悠々と步む憎さ、負けじと我も息張りて追ひ付けば其の大男ふりかへりて。此の通りの雪なれば道も何もある譯では無ければ谷を傳はりて行くだけの分、あなた樣若し堪忍(がまん)强く少時(しばし)の難澁を忍ばるゝなら一層勾配の烈しき代り頂上へ達する近道を行きませうかと尋ねられ。エーまゝの皮、さう仕ようと決斷し又登る一里あまり、樅の木柘の木タモの木ドロの木唐松など生ひ茂りて蔭暗く、此の山の本名木叢峠の名は體をあらはして森々と物凄く、梢を渡る風に露はら〳〵と襟首に落ち、顏を()空翠(くうすい)は引く息に伴つて胸惡し、雪に印せる兎鹿の足痕漸く減りて、耳に音信(おとづ)るゝ鳥の聲も次等々々に絕え、身は()ぢ登るの苦しさに汗ばみながら心を掩ひし五慾の塵衣(ぢんえ)は一枚々々剝がるゝ如く、昨日の榮華縱橫無盡に神通を逞しくせし第六識魔王は眷屬(けんぞく)味方を失ひて薄ら淋しく、何といふ事はなけれど世界よりの落武者となつたる樣に心臆せられて、人間老衰の曉五官半ば死して最期に近よりたらん時此の境界に似通ふ者あらば何程なさけなく如何程力弱く如何程賴み少なき者ならん乎とそゞろ悲しく思ふ時、岩を透すまで銳き鳥の聲眞黑の梢より射出されギヨツとして(くび)を縮むる途端、眼にはくら〳〵と湧き亂るゝ唐草樣の者見えつ。是れにてお別れ申します、此處兩國の境界(さかひ)卽ち頂上なり、是れより左り手〳〵と谷を傳ひ下らるれば一つの沼あり、其の沼の左りをまた〳〵下らるれば片科川の水源是れぞ坂東太郞と末は呼ばるゝ、それに()うて行かれなば溫泉湧き出づる小川村といふに着くべし、此處より其村までまだ四里餘少しも人家なし、能く〳〵氣を注けて迷はぬ樣致されよ、さらばと案內者の云ふに又一段に淋しさを增し、今朝の似非(えせ)勇氣挫け果て茫然と見下すに、曇り空の日の光り力なく、常は見ゆると聞きし會津の方の山々も雲がくれて見えず、流石に足の爪先佇む間に冷えを覺えける。

案內者に別れて獨り下る覺束なさ、雪沓なれば滑り〳〵薄ら()に向ふ臑疵つき岩角に頰を擦り雪頽(なだれ)に埋められたる木の枝に(きもの)を裂き、行けども行けども迷うたりや沼の(ほとり)に出でず、樺の木折りて火を()きあたりながら燒飯を取り出して食ふに木屑を嚙む樣にて(うま)からねど饑を凌ぎたれば、色々方角を考へ正して進む、元より時計も持たぬ男なれば時刻分らず、頻りと氣をあせる中、ほの暗くなつて來たれば、是れ大變なり又々曾て荒山に行き暮したる時の樣になりては叶はじと急ぐ程に沼のほとりに來たり、嬉しやと思へば日は冬の()り易く、雪は最早無けれど沓の底は切れて足は痛し、折ふしプツリと沓の紐きれて悲しと道の邉に坐りて夫れを繕ひ繫がんとするに、アツ燈の光り幽かに(ゆら)ぐを見付け嬉しや〳〵とたどり行けば、丸木の掘立柱笹葺きの屋根したる小家、尙蕾の堅き山櫻の大木の根方に立てり、所がらとて時候のかくも變る者ぞと驚かれぬる、萩の垣結ふ丈の事もせざるは枝折戶(しをりど)の面倒も嫌へるにや、家の橫手に幅一間計りの小河流るれば(かけひ)して水呼ぶ世話も要らぬと見えたり、此の樣にしても世は渡らるゝ者と有り難く、尙近く寄りて火の洩る戶の(きは)に立ち、中禪寺の湯元より峠越えして道に迷ひし者、盡く疲れ果て殊さら夜になりて難義いたしますが、小川村まではまだどれ程の道法(みちのり)でござりますか、且つは雪沓を切らして步み難く困りますに草鞋一足御讓り下さるまいかと云へば。それは〳〵お氣の毒な事、小川まではもう二十町ばかり川に添うて行かれさへすれば間違ひなし、お履物をお切らしなされては眞に御難義ならんが生憎草鞋一足もない事羞づかし、然し私のはき捨ての草履にても宜しくば參らせませうと云ふはアラ不思議、なまめかしき女の聲、かゝる山中に似合はしからずされど是れも獵師か何ぞの娘ならん、唯弱りたるは足の裏痛み惱みて右の小指左りの拇指は生爪まで剝がしたれば是れより二十町到底あるけず、出來る事なら一夜の宿を賴まんと。眞に申し兼たれど、小川まで二十町と承はりては疲れたる身の中々に步み難く、痛み(しよ)さへあれば憫然(ふびん)と思し召して一夜の宿りを許したまへ。それは思ひも寄らぬ事、女子許りなればと云ひ乍ら、板戶引き開け身體を半分出す女、年は二十四五なるべし、後面(うしろ)に燈を負ひて後光さす天女の如く、其の色の(しろ)さ、其の眼のぱつちりとしたる、其の眉つきの長く柔和なる、其の口元の小さく締りたる、其の髮の今日洗ひたる乎と覺えて結ひもせず後に投げ掛けて末の方を引き裂きたる白紙にて一寸(まと)めたる毛のふさ〳〵としてくねらざる美しさは人にあらず、おのれ妖怪かと三足ほど退(さが)つて覗へば、女も我をつく〴〵と見て、傷ましやお前樣の風情、御足のあちこち怪我なされたるか紅き者も見ゆるに。御袖も草木に()へられてか綻び切れ御顏色もいたく衰へ苦し氣に居らせらるゝに、成程是れより小川まで僅かの道なれど行き惱み玉ふべし、留め難き所なれども世捨人にもあらぬ御方に假の宿りに心止むなとも申し難ければ()げて一夜を明させ申すべし、强くお斷絕(ことわ)り申すもつらし、いざ(こゝ)に御腰かけられよ、御洗足の湯持て參らんと云はれて氣味の惡さ、今更()げ出さんも流石なれば持前のづう〴〵しく腰打ち掛けて有り難しと禮いふ中、小桶に熱き湯汲み來りて甲斐々々しく洗ひくれんとするを。是れは恐れ入ります、ナニ自分で濯ぎます。イエ〳〵御遠慮なしにサア御足をお伸しあそばせと問答する暇に指の股の泥まで奇麗に落ちて疊の上にあがり叮寧に挨拶すれば、女莞爾(にこ〳〵)と笑ひながら。山中なれば御馳走も出來ねど幸ひ小川村と同じ(みやく)の溫泉の背戶の方に湧き居れば一風呂御這入りあつて一日の疲勞(つかれ)をお休めなされ、サア此方へござれ御背中を流しませうか。ハテ狐にでも(ばか)さるゝではないかと內々危ぶみ居る我が手を取る樣にして。湯殿へと申しても片庇廂(かたひさし)雨露を凌ぐばかり、いぶせけれど湯は天然の靈泉まことに能く暖まりますといふ口上噓らしくなく、底まで見え透く淸き湯槽(ゆぶね)大事なからうと這入れば、無類の心持(こゝち)遙かに湯元より結構、晝間のつらかりしも忘れ悠々と上つて來るを待ち付けて女。御召憎うはござりませうが御着物の綻びを縫うてあげます間是れをと、後より引きかけて吳れるはぼてつかぬフラネルの浴衣に重ねたる黑出八丈の綿入れ、女物なれば丈ありてユキ無く兩手のぬつと出づるは可笑しけれど親切かたじけなし、餘程ふしぎな取り扱ひどうした運命だらうと怪しみながら少し煙にまかれて。ハイ〳〵是れはどうも恐縮。御帶にも岩角の苔が付いて居りますれば可笑しくとも之れをと笑ひながら出すは緋縮緬(ひぢりめん)のしごき。ハイ〳〵と帶にして是れも大方藤蔓か知れぬと觀念し、座敷へ來て居爐裏(ゐろり)の傍に坐る肩へ羽折り吳るゝは八反の鼠小辨慶(こべんけい)のねんねこ。湯覺めをなされて若しお風邪でも召しては何處ぞのお方に濟みませぬと味な口きゝ、どん〴〵と柴折りくべ自在にかけたる鍋の沸き立つを取り下して。定めし御空腹でござんしたらう、サア御膳も出來ましたがお氣の毒なは麥飯、暖い丈を取り柄に山家の不自由をお許しなされと取り出す蝶足の八寸、()けて吳るゝ山獨活(やまうど)の味噌汁香氣椀に溢る、禮云ひながら我は(うま)く食へば女も。妾も御一所に片付けて仕まひましよかと()と無造作に喰ふに膳なく、椀を爐椽に置かんとして流石に馴れずやたゆたふを。此の膳お用ゐなされと突きやれば。そんならおとり膳とやらに、オホヽ、御免なされと顏も赤めず、宵よりの所業一々合點の行かぬ事どものみなり。

さて飯も(をは)りたれば、女は我に(かま)はず手ばしこく膳椀とり片付けて火影ゆらぐ行燈の下に坐り、我が衣物(きもの)の綻びを(つゞく)る樣、十年も連れ添ひたる女房の樣に見榮も色氣もなく仕こなす不思議さ、さりとては何物ならん、世を捨てたる女かと見れば黑髮匂やかにして尼にもあらず、世を捨てざる女かと見れば此の容色を問ふ人もなき深山の獨り住み訝かしく、何にせよ口不調法なる我口惜しく問ひ出づる詞を知らで樣々考ふる中、女は綻び繕ひ了りて其のまゝ疊み置き、爐の傍に來て我とさしむかひ笑まし氣に。若き御方の何故の御旅行か知らねど定めし面白き事もござりましたらうにチトお聞かせなされと却つて向ふより切り掛けられ。イヤ〳〵我等凡夫の癖に山あるきは好きなれど、歌の一つも讀み得ねば面白き所あつてもお話し申す言葉拙なし、お前樣こそ見受くる所御風流の御生活(おくらし)、由緖あるお方とは先程より思ひましたが、さりとては盛りの御身を無殘の山住み、如何なる仔細か御話しなされてよき事ならば。ホヽ中々の事(しづ)の女に何の由緖のありませう、唯(わたくし)は妙と申す氣輕者、去歲(こぞ)より此處に移りたるばかり、おまへ樣は。露伴と名乘る氣輕者。扨は氣輕と云はるゝか。如何にも。何の上の氣輕。我は何とも知らず山に浮かれ水に浮かるゝだけの氣輕、おまへ樣は。浮世を厭ふだけの氣輕。ハテ怪しからぬ、浮世を眞誠(まこと)に厭ひ玉ひなば御頭(おんつむり)をもゴツソリと剃り丸め玉ひ、墨染の衣に御身をやつされ、朝は山路に花を採り夕は溪川(たにがは)閼伽(あか)を汲みて(くう)ぜられ看經(かんきん)念佛の勤めあるべきに、珠數さへ持ち玉はざる計りか、昔の人は美しき面に焚鐵(やきがね)當てしさへあるに、お前樣は誰に見よとての黑髮、油こそ無けれしなやかに、友仙の御下着紅こそなけれ仇めかしく色作らせらるゝ事疑はし、世を疎み玉ふとは詐り、深く云ひ交したる殿御を恨むる筋の有るかなどにて口舌の餘り()ね玉ふての山籠り、思はせぶりの初紅葉あきくちから濃うなるといふ色手管、是れは失禮圖に乘つて饒舌(しやべ)りました。アラ此の人の口の憎さ、其の樣な浮きたる事にはあらず、全く世をば避け厭ひて。マザ〳〵とした御戲談(ごじようだん)、さらば世を厭ふとは如何なる譯と押し返して問へば。要らぬ事尋ねて可惜(あたら)夜の更くるに御休みなされと身を起して戶棚より出すは綿まづしき瘦せ蒲團かと思ひの外、緋緞子(ひどんす)の蒲團淺黃綸子(りんず)抱卷(かいまき)紅羽二重の裏付けて獵虎(らつこ)の襟、驚かるゝ贅澤。サア御寢(ぎよし)なれと我を押しやりて小屛風立てまはすに是非なく話しを中途にして。然らばお先へ御免蒙ると橫になれば、蓬萊(ほうらい)の夢見さうな雲鶴の錦の丸枕に茶を詰めあるやゆかしき香、鼻の(さき)に立つ不審どうも眠らればこそ、ソツと屛風の外を覗けば爐の傍に尙端然と坐して何やらを讀み居る美しさ人形の樣なり、一時間も()てど我は尙寐られねば又覗くに矢張り動かず、二時間も過ぎて又伺ふに女は元の通り、眞夜中頃にも心愈々冴えて後先揃はぬ此の()の始末を考へながら又覗けば女は頻りと火箸もて灰搔き起し居れど柴木最早盡きて爐の暖かならず、小叢峠の麓なれば流石に寒氣を覺えてや、獨り言に溫泉()にでも入らんと云ひ捨てて湯殿の方へ行きつるが少時(しばし)して歸れば爐の火は全く細々となれるに尙其の傍に端然と坐りたる樣子何の用ありとも見えず、全く寐るべき夜具なき故と知られたれば、我男の身として自分ばかり(ぬくま)り居るをさもしき樣に思ひなし、今眼さめたる振りして()と起き出づれば。御手水(おてうづ)かと案內するに連れ、用たして戾りがけ心付きたる顏して。お妙さま未だおよらずか。ハイ。誰人を待たるゝ戀か知らねど大分夜も更けましたらうに。ホヽ御調戲(おからかひ)なさらずと能うおやすみなされ。イヤ違ひましたら幾重にもお詫びをしますが、お獨り住みの御樣子、其處へ推して一泊を願ひましたれば御臥床(ふしど)を奪ひましたかとも危ぶみます、若し萬一左樣ならば我等こそ男の身、野宿の覺えもござれば柱に(もた)れて眠る一夜位苦にもならざれ、お前樣さうして居られては心苦しかりし、寢溫(ねぬくも)りの殘りしは氣味あしくも思しめさんがどうかお休みなされと云へば顏少し赤め。御言葉の通り眞に夜具一揃ひより持たざれど、おとめ申したる時より妾は斯うして夜を明かして大事ないと思ひ定めましたれば御構ひなく。それではどうも。そう(おつしや)らずと。我らが困ります。妾が困ります。マアお前樣御臥(おやす)みなされ。マア〳〵あなた御寢(ぎよし)なれ。其れでは際限なし、露伴男でござる、瘦せ我慢致して是れより御暇( おいとま)申す、女性(によしやう)に難儀させて我心よく眠らば一生の瑕瑾(かきん)、母の手前朋友の手前恥づかしく夜道まだ〳〵樂な事なり。それ程までに仰せらるゝを背き難し、あなたに夜道步行(あるか)せましては妾の心遣ひ皆(あだ)となる事なれば御言葉には從ひませうが、それではあなたに寐床暖めて頂いた樣な者、のめ〳〵と其れにくるまつてあなたを火もなき爐の傍に丸寐させては、假令(たとへ)ば妾夢に戀人に逢はうとも面白からず、妙も女でござんす、妾一生の瑕瑾持佛の手前はづかしく、どうしてもあなたを能うお臥ませ申さでは。其の樣に言葉を廻されてはどうして良いやら譯が分らず、無骨者の我等閉口しますに。ホヽ閉口なされたら溫順(おとな)しく妾の云ふ事を聞いてお臥みあれ。イヤ〳〵拙者の申す通りになされ。マア頑固に剛情を張られずとも。頑固でも何でも拙者の申す事聞かるゝがよい。ハイ〳〵到底あなたの頑固には叶ひませぬからあなたの申さるゝ通りに致しましよう、ホヽホヽ、まあ怖い顏をして。怖い顏は生れ付きです。怒られたの。イエ御厚意に向つて何の怒りませう、唯少し眞面目になった計り。ホヽ可愛らしい眞面目に。ハイ眞面目に。妾も眞面目に申しませう、サア露伴樣。何。殿御の仰る事さへ通れば女子の云ふ事は通らずともよいと思はるゝか。何。御自分の御言葉だけを無理やりに心弱い妾に承知させて妾の眞實には露かゝらぬと酷らしうおつしやるか。知らん。知らんとは御卑怯な、サア此方(こち)へござれ御一所に臥みませう、妾もあなたの御言葉を立てますればあなたとて妾の一言を立てて下さつたとて御身體の()くるでもあるまい汚るゝでもござるまいに何故さう堅うなつて四角ばつてばかり居らるゝか、エヽ野暮らしいと柔らかな手に我が手を取りて(ひとみ)も動かさず平氣に引き立てんとする其の美しさ恐ろしさ。我膽も凍るばかり慄然(ぞつ)として眼を瞑ぎ唇を咬み切め心の中にて「孽海(げつかい)茫々たり、首惡色慾に如くは無く、塵寰(ぢんくわん)擾々たり、犯し易きは惟邪淫なり。拔山蓋世(ばつざんがいせい)の雄、(こゝ)に坐して身を(ほろぼ)し國を喪ひ、繡口錦心(しうこうきんしん)の士、(これ)に因りて節を敗り名を(おと)す。始めは一念の差たり、遂に畢世(ひつせい)(あがな)ふ莫きを致す。何ぞ乃ち淫風日に(さか)んにして、天理淪亡(りんぼう)するや。(まさ)に悲しむべく(まさ)(うら)むべきの行ひを以て、反つて計を得たりとなし、而して衆怒衆賤の事、(てん)として羞づるを知らず。淫詞を刊し、麗色を談じ、目は道左の嬌姿に注ぎ、(はらわた)は簾中の窈窕(えうてう)に斷ゆ。或いは貞節、或いは淑德、(よみ)すべく敬すべきを、遂に計誘して完行なからしめ、若しくは婢女(ひぢよ)、若しくは僕妾(ぼくせふ)(あはれ)むべく(あはれ)むべきを、竟に勢逼(せいひよく)して終身を(けが)すを致し、既に親族をして羞を含ましめ、猶子孫をして垢を蒙らしむ。總て心昏く氣濁り、賢遠ざかり(ねい)親しむに由る。(あに)知らんや天地(ゆる)し難く、神人震怒し、或いは妻女酬償し、或いは子孫受報す。絕嗣(ぜつし)の墳墓は、好色の狂徒にあらざるなく、妓女の祖宗(そそう)は、盡く是れ貪花(たんくわ)の浪子なり。富むべき者は玉樓に籍を削られ(たつと)かるべき者も金榜に名を除かる。笞杖徒流大辟(だいびやく)、生きては五等の刑に遭ひ、地獄餓鬼畜生、沒しては三途の苦を受く。從前の恩愛、(こゝ)に至つて空と成り、昔日の風流而も今(いづ)くにか在る。其の後悔以て從ふなからんよりは、(はや)く思ふて犯す勿きに(いづ)れぞ。謹んで靑年の佳士、黃卷の名流に勸む、覺悟の心を發し、色魔の障を破らん事を。芙蓉の白面は帶肉の骷髏(ころ)に過ぎず、美艷紅妝(びえんこうしやう)乃ち是れ殺人の利刀なり。(たと)ひ花の如く玉の如きの(かんばせ)に對するも、常に姉の如く妹の如くするの心を存して、未行者(みぎやうしや)は失足を防ぐべく、已行者(いぎやうしや)は務めて早く囘頭せよ。更に望む、展轉(てん〳〵)流通(るつう)し、(たがひ)相化導(あひくわだう)し、必ず在々(ひと)しく覺路に歸し、人々共に迷津(めいしん)を出でしめんことを。すなはち首惡既に除き、萬邪(おのづか)(しやう)し、靈臺(れいだい)滯りなく世榮(せいえい)遠きに垂れん矣。」とうろ覺えの文帝遏慾(かつよく)文を唱へける我が見地の低さ(いや)しさ。

(二)

  • 色仕掛け生命危ふき鬼一口と
  • 逃げてまはりし臆病もの
  • 仔細うけたまはれば仔細なき事

年は今色の盛り、春の花咲き亂れたる樣に美しき婦人(をんな)と一ツ屋の中に居るさへ、我柳下惠(りうかけい)に及ぶべくもあらぬ身の氣味惡し。然しながら何千萬人浮世男の口喧(くちやか)ましく我を罵り責むるとも、鐵牛角上の蚊ほどにも思はぬ瘦せ我慢の强ければこそ此の()(とゞ)まりて此の女とさしむかひに飯もたべたれ談話(はなし)も仕たれ。素より人間の批判取り沙汰何とも思はざる我も、天道の見る前に山中ならばとて見ず知らずの女と同衾(ひとつね)する事羞づかし。否々同衾する事少しも羞づかしからぬにせよ、其の柔らかき肌近く、僅かに衣服(きもの)幾重かを隔てて、身の內の溫暖(あたゝかみ)の互ひに通ふまで密接合(くつつきあ)ひて我眠らるべきにあらず。共に寐よとの言葉かけられたる丈にてさへ身內(わなゝ)き慄へ、我が舌忽ち乾き、我が心かきむしらるゝ如く、幾年の修行少しの役にたゝず、もだ〳〵と上氣して今遏慾(かつよく)の文一通り口の中に唱へ(をは)るまでは思慮分別の湧く間なく、正直の所は胸の中に一點の主意なくなり、婆子燒庵(ばしせうあん)の公案ひねくりし昔時(むかし)のやうにはあらざりし。況や此の美しき婦人(をんな)と咎めだての無きかゝる山奧の庵中に眠らば中々以て、枯木寒岩(こぼくかんがん)に憑る三冬暖氣なしといふ工合に意を(をさ)めて寂然と濟まし居らるべしとは思へず。美人今夜若し我に約さば枯楊(こやう)春老いて更に(ひこばえ)を生ぜんとは紫野の大德一休樣さへ白狀されし眞實の所、大俗の我等賢人顏したりとて危ふい哉〳〵、婦女(をんな)の居ぬ山蔭ならば羅漢と(ひと)しく悟り切つても居らるべし、白い臑見ては通を得し仙人でも雲の(うてな)を踏み外して落ちし話あり。若しも久米殿其の女と同衾(ひとつね)したら多分は底の無い地獄の奧深く墮落せん事必定なり。我今此の美しく心(やさ)しげな女と一つ抱卷(かいまき)掛けて枕をならべ仔細なく一夜を明かさんとするとも。背中合はせでは肩寒し、山里の夜風透間洩りて一しほ寒ければと我が肩に夜着品よく着せ掛けて。此方(こち)お向きなされそれでは兩人(ふたり)の間に風が入りてと云はれては愈々むつかし。あの(しな)やかなる(びん)の毛我が頬を()でて、花のやうな顏我が鼻の先にありては尙々むつかし。玉の(かひな)何處にか置きなん、乳首何處にか去らん、扨は愈々大事なり、女猫抱いて寐ると同じ心にて我眠らるべきか。(シツ)。若しや夜着の內人の見ぬ所、身動きに衣引(きぬひ)きまくれて肉置程良(しゝおきほどよ)き女の足先腿後(ふくらはぎ)など我が毛臑に()らば是れこそ。(カツ)。生死一機に迫る一大事。素より道力堅固ならず、戒行常に破れ居る凡夫の我、あさましき心は起さざるにもせよ長閑(のどか)なる夢は結び難し、且つは此の女眞實(まこと)に人間か狐狸か、先程よりの處置一々合點ゆかず。よしや狐狸にもせよ妖怪にもせよ、人間の形をなし、人間の言葉を交ふる上は人間と見るは至當、其の人間と共に眠らん事人間の道理にあるまじき事なり。人間普通の道理にあるまじき事を羞ぢらふ樣子もなく我に(せま)る女め。妖怪と見るも又至當なり、妖怪に向つて我何をか言はん。小人は謹愼の禮を以て來たり惡魔は親切の情を以て(いざな)ふ。扨こそ〳〵ござんなれ惡魔め、鐵拳は模糊たる人情を存せず眞向より打つて下して露伴が力量の恐ろしさを知らせ吳れんか。(あゝ)それも賴み薄し、我不動明王ほどの强き者にもあらねど、魔は却つて梵天を攻めし摩醯修羅(まけいしゆら)の力を持てるかも知れず、毛を吹き疵を求め、草を打つて蛇に會ふは拙なき上の拙なき事ぞかし。如何に答へん何と爲さん、アヽ思ひ付いたり、昔時(むかし)は芭蕉も女に袖を捉へられたる事あるに彼默然として動かず、女終に去らんとする時芭蕉却つて女の袂を捉へ、こちら向け我も淋しき秋の暮と一句の引導渡しけるよし小耳に挾んで聞き覺えたり、我又、好し〳〵芭蕉をまなんで默然たらん計りと漸く一心を決し、胸中には九想の觀を凝らしながら乾坤(けんこん)坐斷(ざだん)する勢ひ逞しく兀然(ごつねん)と坐着すれば、女はもどかしがりて握れる手を尙强く握りしめ。サア露伴樣何考へて居らるゝ此方(こち)へ〳〵と引き立つる。引かれじ〳〵南無三引かれてはと滿身力を籠むれば。此方へ〳〵サア此方へござんせ、さりとては頑固(かたくな)な御方、山に浮かれ水に浮かれたまふ氣輕には似ぬ尻の重さと戲言(ざれごと)云ひつ尙引き立つる。大事々々、此の妖魔めに一步を(てん)ぜられては一步地獄に近づくと齒を囓み(しば)り身を堅くするに尙悠然と女は引く。引かれじと張る力弱くよろ〳〵と引き立てられて最早叶はず、ワツと叫びて手を振りはらひ逃げ出せば女追ひ縋りて我が袂をとらへ、ホヽと笑ひながら。扨は妾を妖怪變化の者かと思はれて夫れ程までに厭がらるゝなるべし、ホヽホヽ今少し(きも)太く心强きお方ならんと存じての親切仇となり却つてお胸を騷がせたる罪深し、眞誠(まこと)妾は妖怪變化にもあらず、浮世を捨てし身のあさましき慾に迷ふにもあらず、兎にも角にも同衾(ひとつね)せんとは强ひて申さじ、今より夜道あるかせ申さば亭主振(あるじぶ)り餘りに拙く悔み限りなし、先づ〳〵坐り玉へと(とゞ)むるを我又無下に振り切るも恐ろしく()の向ふに坐れば、女は(なた)取り出して立ち上るに、我又々ビクリとするを見てホヽと笑ひ草履つゝ掛けて戶の外に出で、丁々と響かする木を伐る音。生木なりと()かんとて薪取りに外へ出でたるぞと悟れば、漸く安堵して我つゞいて外に出で、(もや)し木を取り玉ふならば男の事我助力致さんと(なた)借り受け、そこらの雜木切り倒して一ト抱へだけ()の內に投げ込み、戶口(しつか)りと風を(さえぎ)りて(むか)ひ坐れば、女は火を搔き起こして僅かに()やし初め頓て漸く()え立ち暖氣滿つるを見て。此の通り爐に火もあり、妾は愈々獨り起き居る事つらからねばサア露伴樣ゆつくりと御やすみなされ、決して再び不束な妾御一緖にとは申さじ、ホヽホヽ、膽の小さい御客樣に可惜(あたら)御氣をもませ申しましたは妾があやまりました、御心配なしに獨りでおやすみなされまし。イヤ先刻も申したる通りおまへ樣おやすみなされ。ホヽホヽ、又剛情を張らるゝか、夫れならば御一緖にか。夫れは御免蒙りたし大俗凡夫の我等おまへ樣のやうな美しい方と一緖に寐るは小人罪なし玉を抱いて罪ありの金言まのあたり。オホヽホヽ、おなぶりなさるゝな、何の妾が厭なればこそ其の樣に御逃げなさるゝなれ、嫌はれては今更是非もなけれど眞實妾の了見では夜風寒き山中何の御馳走申す風情もなければ、其のむかし乳母があなたを抱いて寐かして()げた時の樣にあなたを緊乎(しつかり)と抱いて妾の懷中(ふところ)で暖めて()げようばかりの親切、妾も佛菩薩の見玉ふ前に決して淫りがましき念は露もつにあらず、あなたとて一箇(いつか)の大丈夫初めて逢うて抱いて寢た女位に心を動かす樣な弱いお方ではあるまいと存じたに御卑怯千萬未練の御性根、今の御一言御戲談(ごじようだん)ならずば玉を抱かざる前も小人は小人なる通り、妾と同衾(ひとつね)し玉はずとも既に罪ある助倍(すけべい)の御方、ホヽ是れは失禮、兎も角もあなたの御自由になされ、妾は亭主(あるじ)の身で獨り寢る事致し難しといふ。我呆れて明きし口(ふさ)ぎ得ず、茫然と此の女の言葉を聞き、つく〴〵考ふるに人の世の毀譽襃貶(きよほうへん)を心に留めざるのみか、眼前の我をさへ見て三歲の小兒の如く取り扱ひ、然も悠々として胸中別に春ある悟り開けし大智識のやうなるに益々不審晴れず。ハテ何物の子ならん何物の變化ならん、尋常の婦女(をんな)とは思へず、抑々(そも〳〵)如何なる履歷ありて斯く可惜(あたら)しき容貌(やさ)しき心持ちながら山中には引き籠りけん、當世の小督か佛か祇王か祇女か、それとも全く妖魔かとそゞろ恐ろしく。さらばおまへ樣はおまへ樣の御自由我等は我らの自由として我は此の爐前に一夜明かすつもり。妾も爐の前あなたの向ふ座に一夜明かして苦しからず却つて心安し。と(こゝ)に一切(はな)しの(らち)明けば、我大きに安堵して穴のあく程女の頭上より全體を()るに一點の疵なき玉のやうにて折から燃ゆる火焰(ほむら)(ひらめ)く陰に隱現(いんげん)する女神、とても其の氣高さ美しさ人間の繪師まだ是れに似た者も畫きたる例しあらざるべし。

荊茨(いばら)の中に鹿は置きたく無く、鶴は老松(おいまつ)の梢にあらせたし、目ざましき者尊きもの可愛きもの美くしき者、皆其の所を得させたきは我人(われひと)(じやう)ならんと思ふ我、あはれ駿馬は勇士に伴はせたく、名花の園に蝴蝶は眠らせたし。或歲我旅せし時、旅宿(はたごや)の下司()き掃除の時懷中(ふところ)より日本政記一册落したるを見て、心掛けありながら空しく人に僕仕居(つかはれゐ)る其の男の口惜しさ如何ならんと淚ぐみたる事ありし。夫れにもまして今此の女天晴(あつぱれ)姿貌(すがたかたち)、むざ〳〵と深山の谷間に埋れ木の花も咲かせず朽ち果つるは扨も氣の毒。美人所を得ずして榾火(ほたび)(くす)ぼり草の屋に終るとはなさけなき天道の爲されかた。男兒時を得ねば滄海(さうかい)に入ると同じく、既に見識ありて俗情に遠く風流を解して仙境に近づき居る此の女、浮世の塵を厭ひて山中に終らん所存か。さりとては又女の癖に男めきたる憎さよ。女の女らしからざる男の男らしからざる、共に天然の道に背きて醜き事の頂上なり。さりながら女の女らしからずして神らしき、男の男らしからずして神らしきは共に尊き頂上ぞかし。今此の女の言ふ所最早女らしからず、女の口より初めて逢ひたる我を抱いて寐んなど中々以て言へた事ならざるに、然も乳母が幼稚人(をさなきひと)を抱いて寐る如く我を抱いて寐んと云ひし事若し虛誕(うそ)ならずば此の女は女の男めきたるならで神らしき方に近づきたる方外の女なり。然し我凡夫の眼より見れば此の女の斯く(たふ)()ならんより、良き配偶(つれあひ)を得て市井の間に美しき一家を爲したらんこそ望ましけれと思ふまに〳〵又()れば端然とせし御有樣、愈々凡界の女の戀に病み衣服に苦勞し珊瑚の根掛けの玳瑁(たいまい)の櫛のと慾にざわつく(たぐひ)にあらず、御眼の中の(すゞ)しきは紛紜(ふんうん)たる世事を御胸の中に留め玉はざるをあらはし、御顏色のあざやかに艷々しきは充分今の境界(きやうがい)に滿足して何の苦しく覺さるゝ事なきを示して、且つは御口元の締りたるにぞ理非を(きは)め玉ふ知惠(さと)く居玉ふを知られける。不思議〳〵。

餘りの不思議に(こら)へかねて我いと叮寧に眞實(まこと)を籠めて言葉緩く。先程も伺ひたれど歲若きおまへ樣の尼にもあらでの山籠り、如何にも不思議に存ぜらるゝも、一ツは美しき御容貌(やさ)しき御心根持ち玉ひながら無慘や、猪狼(しゝおほかみ)の跡多き地所(ところ)に潛み玉ふを(なげ)かはしく存ずるよりなり、斯く山住みし玉ふ其の譯苦しからずば一通り御聞かせ下されたしと問へば女ホヽと笑ひながら。此の頃うるさく世間に流行(はや)るとか聞きし小說にでも書き玉はん御了見か、よし小說には書かざるにもせよ、話しの土產と都の人に(もたら)し歸らん御了見なるべし、羞づかしき身の上明かして云ふ迄もなけれど、若し人ありて妾の身の上話しを聞き、一點あはれと思ふ人あらば嬉しき事の限りなり、いで恥を忘れて羞づかしき身の上語り申すべし、緣外の緣に引かされて或いは泣き或いは笑ひし夫れも昔の夢の跡、 懺悔は戀の終りと悟りて今何をか(かく)し申すべきと云ひつゝ(ほた)を添へたりけり。

(三)

  • 聞けば聞く程筋のわからぬ
  • 戀路のはじめと悟りの終り
  • 能く〳〵たゞして見れば世間に多い事

其の時お妙は長江を渡る風輕く雲を吹いておぼろにかすむ春の夜の月大空に漂ふ樣に滿面の神彩生々と然も(やさ)しく、藍田を()むる霞あたゝかに草を蒸してほやり〳〵と光り和らぐ玉に陽炎立(かげろひた)つ如く兩眼の流光ちら〳〵と且つ嬉し氣に、聞いて玉はれ露伴樣。妾幼少より東京に生ひ長ちて父母まづしからず家計(くらし)ゆたかなるにまかせて、露を(すゝき)頭簪(かんざし)に何ぞと問ひし頃は蝶と()でられ、風を縮緬(ちりめん)の振袖に厭ひし頃は花といつくしまれ、浮世に樂しみ長閑(のどか)なりし年立ち年暮れて冬を送り春を迎ふる度每買つて貰ふ羽子板と共に背丈段々と大きうなりしが、十四の秋父樣圖らず(かく)れ玉ひしより悲しさ遣る方なく、芝居見る外には泣きたるためし少なき身もひたすらに淚もろくなり、果敢(はか)なき野邊に一條の煙りを(くわん)じて後は三度の御膳に向ふたびに、父上の平常(つね)坐り玉ひし所むなしく明きて完全(そろひ)たる前齒の一本拔けたる如く、しよんぼりと母樣ばかり心淋(うらさび)しく箸持つ力も衰へ玉ひたるやうに召し上りながら、我母樣を見て悲しむと同じく母樣も我を(かへり)み玉ひて、御胸(つか)へたるや御飯の量少なく白湯(さゆ)のみいたづらに()して(ひそ)かに瞼の潤ひさし玉ふに我口中の者の味いつしか消えて奧齒咬みしめしまゝに開く事難かりし。われそれより自然と垂れ籠もり勝ちに日を費やし、平素(ひごろ)好きたる三味の色絲彈き鳴らさんともせず、琴の師匠にも忌中に休課(やすみ)たるまゝ遠ざかりて、母樣が持ち玉ひし草紙くさ〴〵に馴れ(なづ)み、有る事無き事かきつらねたる册子(さうし)の中に幽かなる樂しみをせしが、終に癖となりて彼れ是れ見盡しつる後は薄雪住吉伊勢竹取或は求め或いは借りて三年の中に解らぬながら源氏狹衣にまで讀み至り、其の間つく〴〵人情の濃き薄きを考へ世の(さま)眞實(まこと)虛妄(いつはり)を覺え、むかしより男といふ者のあさましく、意一時(こゝろいつとき)なさけ一時、思ひ込み强けれど辛防弱く、逢ふを(よろこ)べど別れを悲しまず、(なま)めかしく(へつら)へるをかしき女を好み、戀を榮華のわざくれ三昧、犬猫の色美しきを()づる樣に女の髮容(かみかたち)よきを愛づる者なるをさとり、我緣もなき男なれど源氏業平の如き(たは)け者を憎く思ふ事深く、嫉妬するにもあらねど其の戲け者に迷ひ焦がれし色々の女どもを齒痒き馬鹿と心の內に思ひけるが、十八の年母樣もまた老の病危ふくなり玉ひ、兄弟もなき身の氣弱く朝に晚に腹中は泣きながら神佛を賴み御介抱申したる甲斐なく、我亡き後は是れを見て一生の身の程を知れと行水(ゆくみづ)に散り浮く花を靑貝摺りせし黑漆(くろぬり)の小箱を(あた)へられしまゝの御往生、悲しともつらしとも言ふ言葉を知らぬ歎き、漸く御葬式濟まして後、彼の小箱を開き見れば何時の間に(したゝ)め置かれしやら一通の御書置き、是れほどまでに我を可愛(かはゆ)(おぼ)しめされしありがたさと先づ淚こぼれながら讀み見れば、(あゝ)其の時の心持ち今思ひ出しても慄然(ぞつ)とする程、恐ろしさ口惜(くちを)しさ悲しさ情け無さ味氣(あぢき)無さ胸惡さあさましさ心細さ、厭といふ厭な心持ち一時に込み上げて氷水全身に打ちかけられたる如く又猛火に眉毛燒かるゝ如く冷汗脇の下に湧きて身ぶるひ(とゞ)め得ず、氣も暗く眼も暗くゆら〳〵とゆらぐ玉の緖絕え果てん計りなりけるが、夫れより愈々浮世を厭ひて。

イヤ御話しの中途ですが其の黑漆(くろぬり)の小箱の中の文に記しありし事如何なればそれほどまでにお前樣を驚かしたるか。マア御聞きなされ其の文に記しありし事をわたくしの口から申すもつらし。扨も我年は十九の春を迎へて(あだ)に更け行けば親類のやうに親達と交際(つきあひ)し誰彼、我を嫁にせん我が婿を世話せんといひ來るを早くもあさましき人情の詐り、盛りは十年の色、用は一時の財貨にひかれての申し込みと(すい)して、一々きびしく家の(やつこ)謝絕(ことわ)らせ、ひたすら母を慕ひまゐらせ、あはれ此の身の朽ちよかし靈魂(たましひ)のみとなりて母樣の御傍近く行かんものとあせり、つく〴〵生命も惜しからず、世間に何の樂しみなく、讀み耽りし數々の草紙も打ちすてて又見ず、男と(かほ)を合はすさへ忌み嫌ふ樣になりて、蓮葉なる下女共が年若く美しき俳優(やくしや)なぞの噂するまで苦々しく覺えければ、自然と自分は髮に油の香も(とゞ)めず櫛の齒を入れて( びん)の恰好氣にするまでもなし、ましてや前差に鼈甲(べつかふ)()の詮議根掛に鹿の子の色のよしあしなんどは問ひもせず( たゞ)しもせず、紅脂白粉(べにおしろい)はまるで忘れつ、帶に苦勞をせしはむかし下駄に鼻緖を苦勞せしもむかし、羽織の色がどうであらうと着物の取り合はせがどうであらうと一切女のたしなみを捨て、おもしろからぬ心中常に淚を湛へて天地も薄黑く見え花は咲いても(しを)れたる我、鳥は歌ふても默然たる我、皎々(しろ〴〵)と澄む月に(むか)つても濁り水の我には影淸く宿らず、陰々濛々と寐て起きて食ふて少しも何の業なさず、身をじだらくの吾儘にまかし、神を恨み佛を恨み人を恨み天地を恨みて悶え苦しむ一念增長するばかり、遂には神を憤り佛を憤り、今の世に若し正體(おは)さば針の先で()いてやりたきまでに心逼り來りて、道理を見れば何の燈心(とうすみ)の繩張り、道理も更に恐ろしからず、人情を()れば高が氷柱(つらゝ)に彩色の一時、人情も夢うれしからず、胸中に霜雪寒く殘りて(むご)らしき觀念絕ゆる間もなくありけるが、或日の事立派なる蝋塗人車(らふぬりぐるま)我が家の門に付きて髯鬚(ひげ)うるはしき官員風の男案內を請ふに名刺(なふだ)を見れば何某(なにがし)局長奏任一等の御方、當世の利物(きけもの)と評判ある人なれば、我が後見ともなりて家事萬端取り賄ひし老僕(をとこ)出でて御用の筋を何ぞと承たまはるに。唐突(だしぬけ)の參上甚だ失禮なれど傳手(つて)の無きまゝ是非なく直ちに申し入れます、付かぬ事を御聞き申すが當家の御主人御年頃なるに未だ何方とも緣談の御約束なきや、實は拙者舊藩主の若殿見ぬ戀にあくがれ玉ひて是非にと所望なされ居る譯、と申した計りにては御分りあるまじきが今年の春若殿郊外を散步せられし折、或墓地を通りかゝられ、不圖乞食共の話しを聞かるれば、今歸つたあの娘、器量の美しい計りか孝心のいぢらしさ見えて母親の墓の前に蹲踞(うずくま)りたるまゝ動き得ず、淚は雨の絕えぬ程泣いて〳〵、若い身にも似ず、生命惜しからねば早く母樣の御傍に行きたしとの述懷、何と今時珍らしい氣立の女ではないかと一人が云ふを又一人がひつとつて、貴樣今日初めて彼の娘に氣が付いたか、あれは每月の事、去年(こぞ)の何月なりしか彼の娘の母の此處に葬られてから每月の命日怠る事なく此處に來てあの通りの悲歎、餘所(よそ)で見ても可愛想なありさま、殊更今日などは顏も大分瘦せて血色も惡し大方家に居ても始終泣いてばかり居る事であらうかとの噂、耳に入るより若殿ゾツとし玉ひて誘はれし淚が一滴、是れぞ戀の水上思ひの泉、ゆめ〳〵浮きたる御心にあらず、戀が爲せし探索其の後御名前御住所まで何時の間にか聞き知り玉ひ、ます〳〵焦がれて遂に父上の許しを乞はれ、父君の御依賴によりて兎も角も拙者中にたち周旋の勞を取るべく今日態々(わざ〳〵)參上したり、內々承けたまはれば未だ何方とも御緣談きまりたるにもあらぬよし、何と此の話し能く〳〵御考へ下さるまいか、媒人口(なかうどぐち)たゝくではなけれど拙者舊藩主の御嫡子、爵位財產は世間の沙汰でも御存じなるべし、殊に先年獨乙國(どいつこく)に留學せられて學位まである若殿、華族間にて行末望みのある方、全く浮きたる戲れ言大名氣質(かたぎ)の吾儘なる緣談申し入るゝにあらず、四民同等の今日實以て後々は侯爵夫人と我等もあがめ申すべき所存、戀のはじまりの次第を考へられても成るべくは色よきお返事を玉はりたし。とて歸りたる後、老僕(をとこ)は躍り上りて喜び、平常(つね)皺びたる顏の其の時は光りをなし我に向ひて緣組承知せよと說きすゝむるに、我一度はやんごとなき人に戀はれたりと聞きてカツと上氣し、又一度は是れも男の例の一時の熱、やがては褪むる色好みの心(いや)しと蔑視(さげす)み、又一度は母の遺書(かきおき)思ひ出して忽ち身ぶるひ生じ、厭、々、々、々、緣談など聞く耳もたずと强く云へば老僕(をとこ)は驚き、是れほど結構な緣談いやと云はるゝは片腹痛しと理をせめ言葉を盡くして我を諫むれど少しも動かねば是非なく謝絕(ことわ)り申して、情け知らぬ者とも蔭言せらるゝを厭はざりし。されども我其の時より何となく二心になりて然程(さほど)むごくは男を嫌はず、むごかりし心いつしか和らぎて髮かたちをも治むるやうになりしが、三月ほど經て又彼の何某(なにがし)局長見えられ、我が後見に向ひて。過ぎし日の話し(まとま)らぬ以來、流石活潑に聰明に渡らせ玉ひし若殿御動靜(ごやうす)ガラリと變り玉ひ、外出(そとで)もし玉はず書見もし玉はで、花にも月にも嗟嘆(さたん)の御聲ばかり、望みは絕えし此世に、絕えぬ玉の緖のあるは悲しき事の限りぞ、あるに甲斐なき生命誰が爲にかながらへん、などゝ(かこ)ち玉ひて次第々々に三度の御食すゝまず、晝はうと〳〵眠り玉ひて夜は寢難(いねがて)輾轉(ふし)玉ふ、あはれとは是れなりと思ひて御付きの者慰さめまゐらせ、愚かとはそれなりとさとして父君叱り玉へど、唯々()なば()ぬべし露の身の散りなば人のあはれとや見ん、つれなき人はつれなからで、疎まれし我こそうとましけれ、とく〳〵捨てばや生命と朝夕の獨り言、聞かれて母君の堪へ玉はず再度(ふたゝび)拙者を召して此の御使ひ、何卒(なにとぞ)よろしく御推諒(ごすいりやう)ありて御不足の(かど)あらば御遠慮なく申さるべし、一々御指揮(おさしづ)に隨ひ申すべければ此の戀成就する樣、と情を盡くし道理を責めての話し。其の時我ふすま越しに聞いて思はず泣きしが、老僕(をとこ)が我に向ひて返事相談する時には又彼の母上が殘し玉ひし書置きの事思ひ出して唯々つれなく、緣を結ぶは厭なりと云ひ切つて數多(あまた)の人に憎まるゝを(かま)はざりし、此の度は最早思ひ切つて來るまじと思ひしに又一月ほどたち、彼の人來りて。若殿(つひ)に浮世をあぢきなく思はれしあまりうつら〳〵と病ひの床に打ち臥され其の後御枕上らず、療治の詮方もなく父君母君今は共に最愛の御嫡子に引かされて心よわく、共に御心配のありさま餘所(よそ)に見るさへ痛まし、願はくは思ひ返してよき返事聞かせ玉ふやうとりなし玉はれ、是れは若殿御病床の中にて書き捨てられし反故ながら戀の切なる事あらはれて隱れず、せめては是れをだに見せまゐらせて少しはあはれを汲まるゝたよりともなれかしと持て參りしなり、又是れは若殿いまだ御病氣になり玉はざりし前の寫眞なるが是れも倂せてまゐらすべし、御返事は明日また伺ひに上るべし、且つは又其の折御返事は如何にもあれ、若殿が生命かけてまで焦がれたる方の寫眞一枚玉はりたしと云ひ殘して歸りつれば、老僕(をとこ)又我に色々說諭し、是非に此の緣結ばれよ、淺からぬ因緣なるべしなど泣いて勸むれど我剛情に承知せねば少しは怒りて立ち去りしあとに殘せる寫眞、見るに氣高く美しき御顏ばせ、いとしさも生じたるばかりか短册に筆も步み健やかならずして

(とぼ )し火も暗うなりゆく夜半の床に
こゝろきえ〴〵君をしぞ思ふ

と覺束なく記されたるを見て吾魂魄(たましひ)もゆら〳〵となりしが、母君の遺書(かきおき)思ひ出して又かゝる貴人に近づくべきにもあらずと、翌日も酷く返事させ寫眞も送らず、かくて十日程過ぎて吾が家の門に慌たゞしく車を寄せて彼の官員(まろ)ぶが如く()せ入り、眼付きさへ常とは變りて淚ぐみながら。つれなき此處の戀はれ人め、今日は是非々々兎角の返事に及ばず邸第(やしき)まで來られよ、若殿御生命今宵を過ごさずと醫師の鑑定、父君母君我等までの歎き察しても玉はれ、殊に今朝若殿の口ずさまれし一首

厭はれし身はうきものと知りながら
尙捨てがたき……

と後の一句を殘して血を吐かれし御ありさま、肺病(やまひ)もつまりは戀故、よしや女は鬼なりと箇程まで思はれてまだつらく當るべきや、と半分は恨み半分は怒りて我を引き立て行かんとするに、我は又身を切らるゝより切なけれど愈々剛情に行かじといふ、折しも復た車の音して御付の人を後になし、容儀繕ひ玉ふこともなく馳せ入られし上品の夫人、氣も半亂に。お妙さまとはあなたか、我が子が今臨終の(きは)、一目おまへ樣を見たしと利かぬ舌を無理に動かしての望み、此の通り手を合はせて願ひます是非に來てと侯爵夫人ともいはるゝ尊き人に拜まれて、心は洪水に漂はされたるごとくうろ〳〵するを無理に引き立てられ、車の上も夢路をたどるやうにて立派なる御邸(おやしき)の中に入れば、人々聲を限りに呼ぶ響き、早や切々と悲しみ泣く女の聲も聞ゆるに、夫人は慌てゝ幾間か通り過ぎ玉へば、我も(けぶ)りにまかれて其の跡に()いて病室に入りける。見るに瘦せ枯れ玉ひたる御ありさま、今とりつめて危ふかりしを呼び生けられて母君の顏見玉ひ、さめ〴〵と泣かるゝ痛はしさ、是れも誰故、我故、と思へば沒體なく消えも入りたきを夫人に推し出されて若殿の御側近く參り、我を忘れて淚つゝみ切れず御手を取りたるまゝ何の理由(わけ)とは知らず泣き伏せば、若殿も淚ながら我を見玉ひて御言葉はなく、握られたる手に微弱(かよわ)き力を籠めて我が身に幽玄(かすか)なる働きを與へられたり。其の儘我は絕え入りて夢の如くなりしが其の後呼び生けられたれど、若殿は遂に蘇生(よみがへ)らせ玉はず。我は身も世にあられず立ち歸りてより後、其の人をのみ思ひてなまじひに生殘りたるを口惜しく、ます〳〵天地を恨み(いか)りて狂亂となり、七日の夜、獨り吾が家の持佛の前に看經(かんきん)したる時、朦朧とあらはれ玉ひし御姿のあとを慕ひて脫け出で、何處ともしらず迷ひあるく、眼には幻影(まぼろし)をのみ見て實在の物を見ず、あさましく狂うて此の山中に我しらず來たりしが、圖らず道德高き法師に遇ひ奉り、一念發起して坐禪の庵を此處に引きむすびしばかり。

(たに)水嵩(みづかさ)增して春を知り、峰の木の葉の飜がへつて冬を悟る住居、閑寂の中に群妙を觀じて(かうべ)を廻らし浮世を見れば皆おもしろき人さま〴〵、慘酷(むご)かりし昔時(むかし)の胸の氷碎けて東風(こち)吹く空に絲遊のあるかなきかの身もおもしろく、佛も可愛(かはゆ)く凡夫も可愛くお前樣も眞に可愛し、天地に一つも憎きものなく、樹の間に巢くふ鳥も可愛く、土に穴する狐も可愛し、心華開發して十方世界薰しく、おもしろき唯識の妙理味はひ更に(こまか)く、泥水相分れて淸淨に澄めば天上の月宿る瓔珞經(やうらくきやう)のおもむきもまた愈々面白し、我をあはれと人が云ふもおもしろく我を厭よといふもをかし、お前樣を可愛と思うたればこそ抱いて寐てといひしに厭がられしは愈々をかし、昔時(むかし)は我死ぬほど人に戀はれてもつらくあたり、今は我死ぬほど人に厭がられても可愛し、一心の變化同じ天地を恨みもし樂しみもすることをかしけれと長々しく語りつくせど、我更に其の故を悟らず。もし〳〵お妙さま其の話しの中の骨となりし行水に散り浮く花の靑貝摺りせし黑塗の小箱の中の書置きは何事なりしか、其れを聞かでは話し分らず。ハテ野暮らしい其れを聞く樣では貴君(あなた)もまだ人情しらず、其の書置き讀んで後慘くなりしといへば云はずと知れし事、世を捨てよといふ敎訓(をしへ)、浮世を捨てねばならぬ譯をかきしるせるに(きま)つた事。怪しからぬ事浮世を捨てねばならぬ譯なし。イヤ〳〵妾等一類の人間是非とも浮世を捨てねばならず、浮世を捨てねば安心の道おぼつかなし、さればこそ初めは神をも佛をも恨みし也。扨も分らぬ話。イエ〳〵能く分かつた話、深山の中にのたれ死にせずばならぬ妾等の身の上、浮世の人は(まなこ)くらく、種々のあはれを悟りながら、情けなき妾等の身の上には月日も全く暗く花鳥も全くおもしろからぬを知らず、されば彼の若殿に我が身を早く任せざりしも若殿の子孫をして我が如くあさましからしめざらんとの眞實(まこと)の心、其の時の苦しさ推量したまへと沈みたる調子に答へながら急に語氣を變へて、ホヽホヽおもしろからぬ長話最早やめに致しませう、言ふもうるさく語るも盡きじ、戀と恨みは隣り同志、これまで〳〵これまでなりや繰り言もと云ひさして又(ほた)を添ゆる容顏(かんばせ)美麗(うるはし)さ、水晶屈原の醒めたる色ならで瑪瑙(めなう)淵明の醉へるがごときありさまなり。頓て又かすかに我を見て、あら本意なき夜の短うて可惜(あたら)明け放れなば假初(かりそめ)ながらの緣も是れまで、君は片科川に浮く花、香は急流に伴つて十里を飛ぶ(すみ)やかに、我は其の川の岸に立つ柳、影は水底(みなそこ)に沈んで一步を(ゆる)ぎ難し、逢うての喜び別離(わかれ)のつらさ(たは)けし戀の後朝(きぬ〴〵)ばかりにはあらず。といふ時しもあれ、朝日紅々とさし登りて家も人も雲霧と消え、枯れ殘りたる去歲(こぞ)萱薄(かやすゝき)の中に雪沓の紐(つな)ぎかけしまゝ我たゞ一人にして足下(あしもと)白髑髏(はくどくろ)一つ。

さても昨夜(ゆふべ)は法外の小說を野宿の伽として面白かりし、例令(たとへ)言葉は無くとも吾が伽をせし髑髏是れ故にこそ淋しからざりし、是れも亦有緣(うえん)の亡者、形の小さきは必らず女なるべし、女の身にて此處にのたれ死に、弔ふ人さへ無きはあはれ深しと其の髑髏を埋め納め、合掌して南無阿彌陀佛〳〵、お蔭さまで昨夜(ゆふべ)は面白うござりました。と禮をのべ、段々川邊を小川村に出で溫泉宿(ゆやど)に入りて、此の山奧に入りしまゝ出て來ざりし人なかりしやと問へば亭主けゞん顏して暫く考へ。不思議の事を問はるゝものかな、オヽ去年(こぞ)の事なりしが乞食の女あさましく狂ひ〳〵て山深くの方へ入りし事ありしが日光の方へは行かざりしよし、何處へ行きしかと今に其の噂あり、それを尋ねらるゝかと云ふに。それ〳〵其の女の樣子知るだけ詳しく語れと(せま)れば老父(おやぢ)苦い顏して我をジロ〴〵見ながら。年は大凡二十七八、何處の者とも分らず、色目も見えぬほど汚れ垢付きたる襤褸(ぼろ)を纏ひ、破れ笠を負ひ掛け、足には履物もなく、竹の杖によわ〳〵とすがり、(はな)すさへ忌はしきありさま、總身の色黑赤く、處々に紫がゝりて怪しく光りあり、手足の指生姜の根のやうに(かゞ)みて筋もなきまで膨れ、殊更左の足の指は僅かに三本だけ殘り其の一本の太さ常の人の二本ぶりありて其の續きむつくりと甲までふくだみ、右の足は拇指の失せし痕かすかに見え、右の手の小指骨もなき如く柔らかさうに縮みながら水を持つて氣味あしく大きなる(かひこ)のやうなり、左の手は指あらかた落ちて拳頭(こぶし)ずんぐりと丸く、顏は愈々恐ろしく(あかゞね)の獅子半ば()ろけたるに似て眉の毛盡く脫け、額一體に(たか)く張り出して處々(くぼ)みたる穴あり、其の穴の所の色は褪めたる紫の上に溝泥(どぶどろ)を薄くなすり付けたるよりまだ〳〵汚なく、黃色を帶びて鼠色に牡蠣の腐りて流るゝ如き膿汁ジク〴〵と溢れ、其の膿汁に掩はれぬ所は赤子の舌の如き紅き肉(むご)らしく(あら)はれ、鼻柱()()えて其處にも膿汁をしたゝか(たゝ)へ、上唇とろけ去りて(まばら)なる齒の黃ばみたると瘦せ白みたる齒齦(はぐき)と互ひに照り合ひてすさまじく暴露(あらは)れ、口の右の方段々と(たゞ)れ流れたるより頬の半ばまで引きさけて奧齒人を睨まゆる樣に見え透き、髮の毛(すべ)()ければ朱塗の賓頭廬(びんづる)幾年か擦り()でられて減りたる如く妙に光りを放ち、今にも(つひ)え破れんとする熟柿(じゆくし)の如く艷やかなるそれさへ見るにいぶせきに右の眼腐り(すた)りて是れにも膿汁尙乾かず、左の眼の下瞼まくれて血の筋あり〳〵と紅く見ゆる程裏がへり、白眼黃色く灰色に曇り黑眼は薄鳶色にどんよりとして眼球(めだま)なかば飛び出で、人をも神をも佛をも逆目に睨む瞳子(ひとみ)急には動かさず、時々ホツと()く息に滿腔の毒を吐くかと覺えて犬も鳥も逃げ避けける、況て人間は一目見るより胸あしくなり、其のあしき臭ひを飯食ふ折に思ひ出しては味噌汁を(うま)くは吸ひ得ず、膿汁を思ひ出しては珍重せし鹽辛(しほから)を捨てける。されば誰も彼も握り飯與ふる丈の慈悲もせず其の女の爲す儘に任せしに彼呂律(りよりつ)たしかならぬ歌のやうなる者あはれに唸るを聞けば世に捨てられて世を捨てゝ、叱々(しつ〳〵)と覺束なく細々と繰り返しては(いきだは)しく、ハツタと空を睨みて竹杖ふりあげ道傍(みちばた)の石とも云はず樹とも云はず打ちたゝきては狂ひ廻り、狂ひ()ねては打ちたゝき瞋恚(しんい)(ほむら)に心を燒き、狂ひ狂ひて行衞(ゆくゑ(へ))しれず。 (をはり)

對髑髏の後に書す

莊子が記せし髑髏は太平樂をぬかせば韓湘(かんしやう)(たん)ぜし骷髏(ころ)は端唄に歌はれけるそれは可笑しきに、小町のしやれかうべは眼の療治を公家樣に賴み天狗の骸骨は鼻で奇人の鑑定に逢ひたる是れも洒落たり、我が一夜の伽にせし髑髏はをかしからず洒落ず、無理にをかしく洒落させて不幸者を相手に獨り茶番、とにもかくにも枯骨に向つて劒欛(けんは)()する(あざけ)りはまぬかれざるべし