ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

武藏野 (6)

(八)

自分は以上の所說に少しの異存もない。殊に東京市の町外れを題目とせよとの注意は頗る同意であつて、自分も兼ねて思付いて居た事である。町外れを「武藏野」の一部に入れるといへば、少し可笑しく聞こえるが、實は不思議はないので、海を描くに波打ち際を描くも同じ事である。しかし自分はこれを後廻はしにして、小金井堤上の散步に引きつゞき、先づ今の武藏野の水流を說くことにした。

第一は多摩川、第二は隅田川、無論此二流のことは十分に書いて見たいが、さてこれも後廻はしにして、更らに武藏野を流るゝ水流を求めて見たい。

小金井の流れの如き、其一である。此流れは東京近郊に及んでは千駄ケ谷、代々木、角筈(つのはず)などの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。又た井頭池(ゐのかしらいけ)善福池などより流れ出でゝ神田上水となる者。目黑邊を流れて品海に入る者。澁谷邊を流れて金杉に出づる者。其他名も知れぬ細流小渠(せうきよ)に至るまで、若しこれを他所で見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武藏野の平地高臺の(きらひ)なく、林をくゞり、野を橫切り、隱れつ現はれつして、しかも曲りくねつて(小金井は取除(とりの)け)流るゝ趣は、春夏秋冬に通じて吾等の心を惹くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長したので、河といへば隨分大きな河でも、其水は透明であるのを見慣れたせゐか、初は武藏野の流れ、多摩川を除いては、悉く濁つて居るので甚だ不快な感を惹いたものであるが、だん〳〵慣れて見ると、やはり此少し濁つた流れが平原の景色に適つて見えるやうに思はれて來た。

自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であつた、かの友と相携へて近郊を散步した事を憶えて居る。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかゝつた。此夜は月冴えて風淸く、野も林も白紗(はくさ)につゝまれしやうにて、何とも言ひ難き良夜であつた。かの橋の上には村のもの四五人集まつて居て、欄に倚つて何事をか語り何事をか笑ひ、何事をか歌つて居た。其中に一人の老翁が(まじ)つて居て、頻りに若い者の話や歌をまぜツかへして居た。月はさやかに照り、此等の光景を朦朧たる楕圓形の裡に描き出して、田園詩の一節のやうに浮べて居る。自分達も此畫中の人に加はつて欄に倚つて月を眺めて居ると、月は緩やかに流るゝ水面に澄んで映つて居る。羽蟲が水を摶つ每に、細紋起つて暫く月の面に小皺がよる計り。流れは林の間をくねつて出て來り、又た林の間に半圓を描いて隱れて了ふ。林の梢に碎けた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸氣は流れの上、四五尺の處をかすめて居る。

大根の時節に、近郊を散步すると、此等の細流のほとり、到る處で、農夫が大根の土を洗つて居るのを見る。

(九)

必ずしも道玄坂といはず、又た白金といはず、つまり東京市街の一端、或は甲州街道となり、或は靑梅道となり、或は中原道となり、或は世田ケ谷街道となりて、郊外の林地田圃に突入する處の、市街ともつかず宿驛ともつかず、一種の生活と自然とを配合して一種の光景を呈し居る場處を描寫することが、頗る自分の詩興を喚び起すも妙ではないか。なぜ斯樣な場處が我等の感を惹くだらうか。自分は一言にして答へることが出來る。卽ち斯樣な町外れの光景は、何となく人をして社會といふものゝ縮圖でも見るやうな思をなさしむるからであらう。言葉を換へて言へば、田舍の人にも都會の人にも感興を起こさしむるやうな物語、小さな物語、而も哀れの深い物語、或は抱腹するやうな物語が二つ三つ其處らの軒先に隱れて居さうに思はれるからであらう。更らに其特點を言へば、大都會の生活の名殘と田舍の生活の餘波とが此處で落合つて、緩かにうづ(﹅﹅)を卷いて居るやうにも思はれる。

見給へ、其處に片眼の犬が(うずくま)つて居る。此犬の名の通つて居る限りが卽ち此町外れの領分である。

見給へ、其處に小さな料理屋がある。泣くのとも笑ふのとも分らぬ聲を振立てゝわめく(﹅﹅﹅)女の影法師が障子に映つて居る。外は夕闇がこめて、煙の臭とも土の臭ともわかち難き香が淀んで居る。大八車が二臺三臺と續いて通る、其空車の轍の響が喧しく起りては絕え、絕えては起りして居る。

見給へ、鍛冶工(かぢや)の前に二頭の駄馬が立つて居る。其黑い影の橫の方で二三人の男が何事をかひそ〳〵と話し合つて居るのを。鐵蹄(てつてい)の眞赤になつたのが鐵砧(てつちん)の上に置かれ、火花が夕闇を破つて往來の中程まで飛んだ。話して居た人々がどつ(﹅﹅)と何事をか笑つた。月が家竝の後ろの高い樫の梢まで昂ると、向ふ片側の家根が白んで來た。

かんてら(﹅﹅﹅﹅)から黑い油煙が立つて居る、其間を村の者町の者十數人駈け廻はつてわめい(﹅﹅﹅)て居る。色々の野菜が彼方此方に積んで竝べてある。これが小さな野菜市、小さな糶賣場(せりば)である。

日が暮れると直ぐ寢て了ふ家があるかと思ふと、夜の二時ごろまで店の障子に火影を映して居る家がある。理髮所(とこや)の裏が百姓家で、牛のうなる聲が往來まで聞える、酒屋の隣家(となり)が納豆賣の老爺(ぢゞ)の住家で、每朝早く納豆々々と嗄聲(しはがれごゑ)で呼んで都の方へ向つて出かける。夏の短夜(みじかよ)が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろ〴〵がた〴〵絕え間がない。九時十時となると、蝉が往來から見える高い樹で鳴きだす、だん〴〵暑くなる。砂埃が馬の蹄、車の轍に煽られて虛空に舞ひ上がる。蠅の群が往來を橫ぎつて家から家、馬から馬へ飛んであるく。

それでも十二時のどん(﹅﹅)が微かに聞えて、何處となく都の空の彼方で汽笛の響がする。(了)