ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

武藏野 (5)

(六)

今より三年前の夏のことであつた。自分は或友と市中の寓居を出でゝ三崎町の停車場から境まで乘り、其處で下りて北へ眞直に四五丁ゆくと櫻橋といふ小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向つて、「今時分、何にしに來たゞア」と問うた事があつた。

自分は友と顏見合せて笑つて、「散步に來たのよ、たゞ遊びに來たのだ」と答へると、婆さんも笑つて、それも馬鹿にした樣な笑ひかたで、「櫻は春咲くこと知らねえだね」と言つた。其處で自分は夏の郊外の散步のどんなに面白いかを婆さんの耳にも解るやうに話してみたが無駄であつた。東京の人は呑氣だといふ一語で消されて了つた。自分等は汗をふき〳〵、婆さんが剥いて吳れる甜瓜(まくはうり)を喰ひ、茶屋の橫を流れる幅一尺計りの小さな溝で顏を洗ひなどして、其處を立出でた。此溝の水は多分、小金井の水道から引いたものらしく、能く澄んで居て、靑草の間を、さも心地よささうに流れて、をり〳〵こぼ〳〵と鳴つては小鳥が來て翼をひたし、喉を(うる)ほすのを待つて居るらしい。しかし婆さんは何とも思はないで此水で朝夕、鍋釜を洗ふやうであつた。

茶屋を出て、自分等は、そろ〳〵小金井の(どて)を、水上の方へとのぼり初めた。あゝ其日の散步がどんなに樂しかつたらう。成程小金井は櫻の名所、それで夏の盛に其堤をのこ〳〵步くも餘所目(よそめ)には愚かに見えるだらう、しかし其れは未だ今の武藏野の夏の日の光を知らぬ人の話である。

空は蒸暑い雲が湧きいでゝ、雲の奧に雲が隱れ、雲と雲との間の底に蒼空が現はれ、雲の蒼空に接する處は白銀の色とも雪の色とも譬へ難き純白な透明な、それで何となく穩やかな淡々しい色を帶びて居る、其處で蒼空が一段と奧深く靑々と見える。たゞ此ぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁つた色の霞のやうなものが、雲と雲との間をかき亂して、凡べての空の模樣を動搖、參差(しんし)、任放、錯雜の有樣と爲し、雲を(つんざ)く光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の(• • • • • )氣が(• • )何處ともなく(• • • • • • )空中に(• • • )微動して(• • • • )居る(• • )。林といふ林、梢といふ梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに熔けて、まどろんで、怠けて、うつら〳〵として醉うて居る。林の一角、直線に斷たれて其間から廣い野が見える、野良一面、絲遊上騰して永くは見つめて居られない。

自分等は汗をふき乍ら、大空を仰いだり、林の奧をのぞいたり、天際の空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘ぎ〳〵辿つてゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれて居る。

長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、或は藪の間から突然、犬が現はれて、自分等を怪しさうに見て、そしてあくび(﹅﹅﹅)をして隱れて了ふ。林の彼方では高く羽ばたきをして雄鷄が時をつくる、それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠つて、ほがらかに聞こえる。堤の上にも家鷄(にはとり)の群が幾組となく櫻の陰などに遊んで居る。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒いたやうな一種の陰翳のうちに消え、間近くなるにつれてぎら(﹅﹅)〴〵輝いて矢の如く走つてくる。自分達は或橋の上に立つて、流れの上と流れのすそと見比べて居た。光線の具合で流れの趣が絕えず變化して居る。水上が突然薄暗くなるかと見ると、雲の影が流れと共に、瞬く間に走つて來て自分達の上まで來て、ふと止まつて、急に橫にそれて了ふことがある。暫くすると水上がまばゆく煌いて來て、兩側の林、堤上の櫻、あたかも雨後の春草のやうに鮮かに綠の光を放つて來る。橋の下では何とも言ひやうのない優しい水音がする。これは水が兩岸に激して發するのでもなく、又淺瀨のやうな音でもない。たつぷりと水量(みづかさ)があつて、それで粘土質の殆ど壁を塗つた樣な深い溝を流れるので、水と水とがもつれ(• • • )からまつ(• • • • )て、揉み合つて、自から音を發するのである。何たる人なつかしい音だらう!

“─let us match
This water’s pleasant tune
With some old Border-song, or Catch
That suits a summer’s noon.”

の句も思ひ出されて、七十二歲の翁と少年とが、そこら櫻の木蔭にでも坐つて居ないだらうかと見廻はしたくなる。自分は此流れの兩側に散點する農家の者を幸福(しあはせ)の人々と思つた。無論、此堤の上を麥藁帽子とステツキ一本で散步する自分達をも。

(七)

自分と一所に小金井の堤を散步した朋友は、今は判官になつて地方に行つて居るが、自分の前號の文を讀んで次の如くに書いて送つて來た。自分は便利のためにこれを此處に引用する必要を感ずる──武藏野は俗にいふ關八州の平野でもない。また道灌が傘の代りに山吹の花を貰つたといふ歷史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武藏野を有して居る。其限界は恰も國境又は村境が山や河や、或は古跡や、色々のもので、定めらるゝやうに自ら定められたもので、其定めは次の色々の考から來る。

僕の武藏野の範圍の中には東京がある。しかし之は無論省かなくてはならぬ、なぜなれば我々は農商務省の官衙(くわんが)巍峨(ぎが)として聳えて居たり、鐵管事件の裁判が有つたりする八百八街によつて昔の面影を想像することが出來ない、それに僕が近頃知合になつた獨逸婦人の評に、東京は「新しい都」といふことが有つて、今日の光景では假令(たとへ)德川の江戶で有つたにしろ、此評語を適當と考へられる筋もある。斯樣なわけで東京は必ず武藏野から抹殺せねばならぬ。

しかし其市の盡くる處、卽ち町外れは必ず抹殺してはならぬ。僕が考には武藏野の詩趣を描くには必ず此町外れを一の題目とせねばならぬと思ふ。例へば君が住まはれた澁谷の道玄坂の近傍、目黑の行人坂(ぎやうにんざか)、また君と僕と散步した事の多い早稻田の鬼子母神邉の町、新宿、白金……。

また武藏野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈國府臺(こふのだい)等を眺めた考のみでなく、また其中央に包まれて居る首府東京をふり顧つた考で眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要が有る。君の一篇にも生活と自然とが密接して居るといふことが有り、また時々色々なものに出遇ふ面白味が描いてあるが、いかにも左樣だ。僕は曾て斯ういふことが有る、家弟をつれて多摩川の方へ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家竝が有り、また家竝に離れ、また家竝に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる。此變化のあるので處々に生活を點綴(てんせつ)して居る趣味の面白いことを感じて話したことが有つた。此趣味を描くために武藏野に散在せる驛、驛といかぬまでも家竝、卽ち製圖家の熟語でいふ聯檐家屋(れんえんかをく)を描寫するの必要がある。

また多摩川はどうしても武藏野の範圍に入れなければならぬ。六つ玉川などゝ我々の先祖が名づけたことが有るが、武藏の多摩川の樣な川が、外にどこにあるか。其川が平な田と低い林とに連接する處の趣味は、恰も首府が郊外と連接する處の趣味と共に無限の意義がある。

また東の方の平面を考へられよ。これは餘りに開けて水田が多くて地平線が少し低い故、除外せられさうなれど矢張武藏野に相違ない。龜井戶の錦絲堀のあたりから木下川(きねがは)邊へかけて、水田と立木と茅屋(かやや)とが趣を成して居る具合は武藏野の一領分である。殊に富士で分かる。富士を高く見せて、恰も我々が逗子の「あぶずり」で眺むるやうに見せるのは此邊に限る。又た筑波で分かる。筑波の影が低く遙かなるを見ると我々は關八州の一隅に武藏野が呼吸して居る意味を感ずる。

しかし東京の南北にかけては武藏野の領分が甚だせまい。殆ど無いといつてもよい。是れは地勢の然らしむる處で、且鐵道が通じて居るので、乃ち「東京」が此線路に由つて武藏野を貫いて直接に他の範圍と連接して居るからで有る。僕はどうも左う感じる。

そこで僕は、武藏野は先づ雜司谷から起つて線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通つて川越近傍まで達し、君の一篇に示された入間郡を包んで圓く甲武線の立川驛に來る。此範圍の間に所澤、田無などいふ驛がどんなに趣味が多いか……殊に夏の綠の深い頃は。扨て立川からは多摩川を限界として上丸子邊まで下る。八王子は決して武藏野には入れられない。そして丸子から下目黑に返る。この範圍の間に布田、登戶、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。

東の半面は龜井戶邊より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到つて止まる。此範圍は異論が有れば取除いても宜い。倂し一種の趣味が有つて武藏野に相違ない事は前に申した通りである。——