ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

武藏野 (4)

(五)

自分の朋友が嘗て其鄕里から寄せた手紙の中に「此間も一人夕方に萱原を步みて考へ申候、此野の中に縱橫に通ぜる十數の徑の上を何百年の昔より此かた朝の露さやけしといひては出で、夕の雲花やかなりといひてはあこがれ、何百人のあはれ知る人や逍遙しつらん、相惡む人は相避けて異なる道をへだゝりて往き、相愛する人は相合して同じ道を手に手とりつゝかへりつらん」との一節があつた。野原の徑を步みては斯るいみじき想ひも起こるならんが、武藏野の路はこれとは異り、相逢はんとて往くとても逢ひそこね、相避けんとて步むも林の回り角で突然出逢ふことがあらう。されば路といふ路、右にめぐり左に轉じ、林を貫き、野を橫ぎり、眞直なること鐵道線路のごときかと思へば、東よりすゝみて又東にかへるやうな迂回の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現はれ、又た林にかくれ、野原の路のやうに能く遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の徑の想ひにもまして、武藏野の路にはいみじき實がある。

武藏野に散步する人は、道に迷ふことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけばかならず其處に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武藏野の美はたゞ其縱橫に通ずる數千條の路を當もなく步くことに由つて始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、晝、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、たゞ此路をぶら〴〵步いて思ひつき次第に右し左すれば隨處に吾等を滿足さするものがある。これが實に又た、武藏野第一の特色だらうと自分はしみ〴〵感じて居る。武藏野を除いて日本に此樣な處が何處にあるか。北海道の原野には無論のこと、奈須野にもない、其外何處にあるか。林と野とが斯くも能く入り亂れて、生活と自然とが(◦◦◦◦◦◦◦)斯の樣に(◦◦◦◦)密接して居る(◦◦◦◦◦◦)處が何處にあるか(◦◦◦◦◦◦◦◦)。實に武藏野に斯る特殊の路のあるのは此の故である。

されば君若し、一の小徑を往き、忽ち三條に分かるゝ處に出たなら困るに及ばない、君の杖を立てゝ其倒れた方に往き玉へ。或は其路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到つて又た二つに分かれたら、其小なる路を撰んで見玉へ。或は其路が君を妙な處に導く。これは林の奧の古い墓地で苔むす墓が四つ五つ竝んで其前に少し計りの空地があつて、其橫の方に女郞花など咲いて居ることもあらう。頭の上の梢で小鳥が鳴いて居たら君の幸福である。すぐ引きかへして左の路を進んで見玉へ。忽ち林が盡きて君の前に見わたしの廣い野が開ける。足元から少しだら〴〵下りに成り萱が一面に生え、尾花の末が日に光つて居る、萱原の先きが畑で、畑の先に背の低い林が一叢繁り、其林の上に遠い杉の小杜が見え、地平線の上に淡々しい雲が集まつて居て雲の色にまがひさうな連山が其間に少しづゝ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小氣味よい風がそよ〳〵と吹く。もし萱原の方へ下りてゆくと、今まで見えた廣い景色が悉く隱れてしまつて、小さな谷の底に出るだらう。思ひがけなく細長い池が萱原と林との間に隱れて居たのを發見する。水は淸く澄んで、大空を橫ぎる白雲の斷片を鮮かに映してゐる。水の潯には枯蘆が少しばかり生えてゐる。此池の潯の徑を暫くゆくと、又た二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君は必ず坂をのぼるだらう。兎角武藏野を散步するのに高い處高い處と撰びたくなるのは、なんとかして廣い眺望を求むるからで、それで其の望みは容易に達せられない。見下ろす樣な眺望は決して出來ない。それは初めからあきらめたがいゝ。

若し君、何かの必要で道を尋ねたく思はば、畑の眞中に居る農夫にきゝ玉へ。農夫が四十以上の人であつたら、大聲をあげて尋ねて見玉へ、驚いて此方を向き、大聲で敎へて吳れるだらう。若し少女(をとめ)であつたら近づいて小聲できゝ玉へ。若し若者であつたら、帽を取って慇懃に問ひ玉へ。鷹揚に敎へて吳れるだらう。怒つてはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。

敎へられた道をゆくと、道が又た二つに分かれる。敎へて吳た方の道は餘りに小さくて少し變だと思つても其通りにゆき玉へ、突然農家の庭先に出るだらう。果して變だと驚いてはいけぬ。其時農家で尋ねて見玉へ、門を出るとすぐ往來ですよと、すげなく答へるだらう。農家の門を外に出て見ると果して見覺えある往來、なる程これが近路だなと君は思はず微笑をもらす、其時初めて敎へて吳れた道の有難さが解るだらう。

眞直な路で兩側共十分に黃葉した林が四五丁も續く處に出る事がある。此路を獨り靜かに步む事のどんなに樂しからう。右側の林の頂は夕照(ゆふひ)鮮かにかゞやいて居る。をり〳〵落葉の音が聞こえる計り、四邉(あたり)しん(﹅﹅)として如何にも淋しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にも遇はず。若し其れが木葉落ちつくした頃ならば、路は落葉に埋れて、一足每にがさ〴〵と音がする、林は奧まで見すかされ、梢の先は針の如く細く蒼空を指してゐる。猶更ら人に遇はない。愈々淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわたゞしく飛び去る羽音に驚かされる計り。

同じ路を引きかへして歸るは愚である。迷つた處が今の武藏野に過ぎない、まさかに行暮れて困る事もあるまい。歸りも矢張凡その方角をきめて、別な路を當てもなく步くが妙。さうすると思はず落日の美觀をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黃金色に染つて、見るがうちに樣々の形に變ずる。連山の頂は白銀の鎖の樣な雪が次第に遠く北に走つて、終は暗憺たる雲のうちに沒してしまふ。

日が落ちる、野は風が强く吹く、林は鳴る、武藏野は暮れんとする、寒さが身に沁む、其時は路をいそぎ玉へ、顧みて思はず新月が枯林の梢の橫に寒い光を放つてゐるのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としさうである。突然又た野に出る。君は其時、

山は暮れ野は黃昏の薄かな

の名句を思ひだすだらう。