ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

武藏野 (2)

(三)

昔の武藏野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以て絕類の美を鳴らして居たやうに言ひ傳へてあるが、今の武藏野は林である。林は實に今の武藏野の特色といつても宜い。卽ち木は主に(なら)(たぐひ)で冬は悉く落葉し、春は滴る計りの新綠萠え出づる、其變化が秩父嶺以東十數里の野一齊に行はれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に、月に風に、霧に時雨に雪に、綠蔭(りよくいん)に紅葉に、樣々の光景を呈する。其妙は一寸西國地方又た東北の者には解し兼ねるのである。元來日本人はこれまで楢の類の落葉林の美を餘り知らなかつた樣である。林といへば主に松林のみが日本の文學美術の上に認められて居て、歌にも楢林の奧で時雨を聞くといふ樣なことは見當らない。自分も西國に人となつて、少年の時學生として初めて東京に上つてから十年になるが、かゝる落葉林の美を解するに至つたのは近來の事で、それも左の文章が大いに自分を敎へたのである。

「秋九月中旬といふころ、一日(あるひ)自分がさる樺の林の中に坐してゐたことが有つた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはをり〳〵生ま煖かな日かげも射して、まことに氣まぐれな空合ひ。あは〳〵しい白雲(しらくも)が空一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から、澄みて怜悧(さか)()に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空(あをぞら)がのぞかれた。自分は坐して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上で幽かに(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し聲でもなく、また末の秋のおど〳〵した、うそさぶさうなお饒舌(しやべ)りでもなかつたが、只漸く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語(さゝやき)の聲で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末を傳つて、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のやうすが間斷なく移り變つた、或はそこに在りとある物總て一時に微笑したやうに、隈なくあかみわたつて、さのみ繁くもない樺のほそ〴〵とした幹は、思ひがけずも白絹めく、やさしい光澤を帶び、地上に散り()いた、細かな落ち葉は、俄に日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしつたやうな『パアポロトニク』(蕨の類ひ)のみごとな莖、しかも()え過ぎた葡萄めく色を帶びたのが、際限もなくもつれつ、からみつして目前に透かして見られた。

或はまた四邉(あたり)一面俄に薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積つた儘でまだ日の眼に逢はぬ雪のやうに、白くおぼろに霞む──と小雨が忍びやかに、怪し氣に、私語(しご)するやうにパラ〳〵と降つて通つた。樺の木の葉は著しく光澤が褪めても流石に尙ほ靑かつた、が只そちこちに立つ稚木(わかぎ)のみは總て赤くも黃いろくも色づいて、をり〳〵日の光りが今雨に濡れた計りの細枝の繁みを漏れて滑りながらに脫けて來るのをあびては、キラ〳〵と煌めいた。」

則ちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が譯して「あひびき」と題した短篇の冒頭にある一節であつて、自分がかゝる落葉林の趣きを解するに至つたのは此微妙な敍景の筆の力が多い。これは露西亞の景で而も林は樺の木で、武藏野の林は楢の木、植物帶からいふと甚だ(ちが)つて居るが落葉林の野は同じ事である。自分は屡々思うた、若し武藏野の林が楢の類でなく、松か何かであつたら極めて平凡な變化に乏しい色彩一樣なものとなつて、左まで珍重するに足らないだらうと。

楢の類だから黃葉する。黃葉するから落葉する。時雨が私語(さゝや)く。(こがらし)が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲へば、幾千萬の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち盡せば、數十里の方域に亙る林が一時に裸體(はだか)になつて、蒼ずんだ冬の空が高く此上に垂れ、武藏野一面が一種の沈靜に入る。空氣が一段澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奧に坐して、四顧し、傾聽し、睇視し、默想すと書いた。「あひびき」にも、自分は坐して、四顧して、そして耳を傾けたとある。此耳を傾けて聞くといふことがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武藏野の心に(かな)つてゐるだらう。秋ならば林のうちより起る音、冬ならば林の彼方遠く響く音。

鳥の羽音、(さへづ)る聲。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ聲。(くさむら)の蔭、林の奧にすだく蟲の音。空車(からぐるま)荷車の林を(めぐ)り、坂を下り、野路を橫ぎる響。蹄で落葉を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乘りに出かけた外國人である。何事をか聲高に話しながらゆく村の者のだみ聲、それも何時しか遠ざかりゆく。獨り淋しさうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲聲。隣の林でだしぬけに起る銃音(つゝおと)。自分が一度犬をつれ、近處の林を訪ひ、切株に腰をかけて(ほん)を讀んで居ると、突然林の奧で物の落ちたやうな音がした。足もとに臥て居た犬が耳を立てゝきつと其方を見詰めた。それぎりで有つた。多分栗が落ちたのであらう、武藏野には栗樹(くりのき)も隨分多いから。

若し夫れ時雨の音に至つては、これほど幽寂のものはない。山家の時雨は我國でも和歌の題にまでなつて居るが、廣い、廣い、野末から野末へと林を越え、杜を越え、田を橫ぎり、又た林を越えて、しのびやかに通り()く時雨の音の如何にも(しづ)かで、又た鷹揚な趣きがあつて、優しく(ゆか)しいのは、實に武藏野の時雨の特色であらう。自分が甞て北海道の深林で時雨に逢つた事がある。これは又た人跡絕無の大森林であるから其趣は更らに深いが、其代り、武藏野の時雨の更らに人なつかしく、私語(さゝや)くが如き趣はない。 

秋の中ごろから冬の(はじめ)、試みに中野あたり、或は澁谷、世田ケ谷、又は小金井の奧の林を訪うて、暫く坐つて散步の疲れを休めて見よ。此等の物音、忽ち起り、忽ち止み、次第に近づき、次第に遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちて微かな音をし、其も止んだ時、自然の靜肅を感じ、永遠(エタルニテー)の呼吸身に迫るを覺ゆるであらう。武藏野の冬の夜更けて星斗闌干たる時、星をも吹き落しさうな野分がすさまじく林をわたる音を、自分は屡々日記に書いた。風の音は人の(おもひ)を遠くに(いざな)ふ。自分は此物凄い風の音の、忽ち近く忽ち遠きを聞いては、遠い昔からの武藏野の生活を思ひつゞけた事もある。

熊谷直好の和歌に、

よもすがら木葉かたよる音きけば   
しのびに風のかよふなりけり

といふがあれど、自分は山家の生活を知つて居ながら、この歌の心をげにもと感じたのは、實に武藏野の冬の村居の時であつた。

林に坐つて居て日の光の尤も美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今こゝには書くべきでない。其次は黃葉の季節である。半ば黃いろく半ば綠な林の中に步いて居ると、澄みわたつた大空が梢々(こずゑ〳〵)の隙間からのぞかれて、日の光は風に動く葉末々々(はずゑ〳〵)に碎け、その美しさ言ひつくされず。日光とか碓氷(うすひ)とか、天下の名所は兎も角、武藏野の樣な廣い平原の林が隈なく染まつて、日の西に傾くと共に一面の火花を放つといふも特異の美觀ではあるまいか。若し高きに登つて一目に此大觀を占めることが出來るなら此上もないこと、よし其れが出來難いにせよ、平原の景の單調なる丈けに、人をして其一部を見て全部の廣い、殆ど限りない光景を想像さするものである。其想像に動かされつゝ夕照(ゆふひ)に向つて黃葉の中を步ける丈け步くことがどんなに面白からう。林が盡きると野に出る。