ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

お茶の水橋

明治二十四年十月の一葉の日記。後藤明生の『挾み撃ち』の主人公が「ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。」と語ったお茶の水橋は1932 年に改架されたもので、一葉が日記で書いている橋は関東大震災で焼失する前の橋である。日記を読む限り、一葉が心を動かされているのは、橋というよりも随筆『月の夜』と同じような情景である。

今宵は舊菊月十五日なり。空はたゞみ渡す限り雲もなくて、くずの葉のうらめづらしき夜なり。いでや、お茶ノ水橋の開橋になりなめるを、行きみんはなど國子にいざなはれて、母君もみてこなどの給ふに、家をば出ぬ。あぶみ坂登りはつる頃、月さしのぼりぬ。軒ばもつちも、たゞ霜のふりたる樣にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞおもしろし。行々て橋のほとりに出ぬ。するが臺のいとひきくみゆるもをかし。月遠じろく水を照して、行(ゆき)かふ舟の火(ほ)かげをかしく、金波銀波こも〴〵よせてくだけてはまどかなるかげいとをかし。森はさかさまにかげをうかべて、水の上に計(ばかり)一村(ひとむら)の雲かゝれるもよし。薄霧立まよひて遠方(をちかた)はいとほのかながらに電氣のともし火かすかにみゆるだもをかし。

幕末にはすでに百万人を超えていた江戸の人口は、明治維新で東京に変わった直後は三割以上も減少してしまう。約五割を構成していた武家人口が急激に減少したためである。江戸末期の武家地は江戸全域の七割程度に及んでいたが、その荒廃が『暗夜』の舞台のように進み、周辺の武家跡地のあるものは『にごりえ』にあるような「新開町」となった。一葉の作品には荒廃した旧武家屋敷や新開といった過渡期の都市の記憶が色濃く出ていると思う。「新開」がどのような場所だったかは、松原岩五郎の『最暗黑の東京』からも伺い知ることができる。