松原岩五郞の『最暗黑の東京』(1893) に「文久店」とあるのは、一葉が龍泉寺で開いてゐた駄菓子屋とおなじものと考へてよいのだらうか。當時の1錢は現在の200圓ぐらゐに考へれば、當たらずも遠からずといふことらしい。寬永通寳眞鍮四文錢は、明治5年9月24日太政官布吿第283號で2厘の價値とされてゐる。つまり、現在の40 圓ぐらゐの價値である。なほ、法的に江戶時代の貨幣が完全通用停止になるのは、昭和28年(1953年)のことである。天保錢に關しては、田山花袋の『東京の三十年』の明治15年(1882) ぐらゐの思ひ出にかうある。『それにしてもなつかしい天保錢! あの小判形の大きな天保錢! 其時分には、それ一つ投り出して簡單に買へたものが澤山にあつた。一錢に二厘足りないので、馬鹿者、うつけ者の混名に使はれたが、實際は何うして! 中々便利な通貨であつた。豆腐、蕎麥のもりかけ、鮭の切身、湯錢、さういふものがすべてそれ一枚で間に合つた。「あの小僧、寒いのに可哀相だ。天保錢でも吳れてやれ」かう言つて、私は處々でそれを貰つた。』
文久店(ぶんきうてん)の御客は多く下等社会の兒供(こども)にあり。彼ら都會に育ちし因果には、生れながらにして廣野(ひろの)の追放を容(ゆる)されず。馬車、人力車、荷車、電信柱の往來する間において駈競べは劍吞なり、鬼事(おにごと)危うし、目隠し草履かくし斯の地面を有せず。樹登り、川浚(せゝ)り斯の場所を持たず。むやみに大凧を揚ぐべからず、無暗に綱引をすべからず。独樂廻しは往來の足を傷(きずつ)け、礫打(つぶてうち)は戶障子の損害要償となる。芋畑なければ芋を掘る事能はず、瓜田(くわでん)なければ瓜茄子(うりなすび)をチギル事能はず、いはんや桃栗柿の木に攀(よぢ)登って美果を泥棒するの戲れに於てをや。彼等若し誤つてこれらの戲れを擬(まね)んとすれば忽ち彼の地主あるいは家主、大家亦は差配なる者に一喝されて「餓鬼」「寐小便」「喰ひ潰し」等の汚名を蒙(かうむ)らざるを得ず。是(こゝ)をもって彼らの腕白大将、餓鬼大将も自然に退陣して文久店の一隅に割據し、三十文を投じてボツタラ*1を燒くにあらずんば即ちメンコを把つて方三尺の地面に輸贏(ゆえい)*2を爭ふのみ。
腕白大将餓鬼大將既に然り、然らば、是が令閨(れいけい)たる泥孩(でいがい)の貴婦人は如何。彼のオチヤツピーと稱する未来の女丈夫、ヤンチヤと稱する少國民の巴御前、彼等は花を袂にして野に摘む事能はず、貝を手籃(てかご)にして濱に摭(ひろ)ふ事能はず、而かも尙慈母(はゝ)の注意は馬車の怪俄を懼(おそ)れ、祖母の心配は人力車の顚覆に近寄らん事を危む。是を以て舗(し)かれたり庭前二尺の薄椽(うすべり)、方三寸の箱は即ち泥孩娘の家屋にして客間あり、庖厨(くりや)あり、竈あり、鍋あり、膳あり、碗あり、庖丁は鐵葉(ぶりき)にして饌(ざん)は羊羹なり。もつて孩娘(がいろう)を饗應し、もつて新婿(はなむこ)を迎ふ、彼の湖處子、嵯峨のや、漣山(さゞなみ)、バアネツト等當世第一流の作者先生たちが極力筆硯(ひつけん)を磨する處も蓋し斯の邊にして、彼ら泥孩のコマシヤクレたる能く家庭の瑣事を記憶して、一歲婚儀を營み、一歲兒を儲くるの飯事戲(まゝごと)に及ぶ、而して其巧みなるに至ツては丹波鬼灯(たんばほゝづき)をブリキの盥(たらい)に入れて上より貝杓子をもつて水を灌ぐ、怪んで是を問へば、是れ蓋し嬰兒(あかご)に產湯を遣はすなりと、見る者呆れてその妙智に驚ろく。
斯の如く是れ都會小兒の遊戲なり、而して其の遊戲の材料はこれを悉皆彼の文久店に仰ぐ。豆鐵炮、笛、喇叭、花火、福袋(たからぶくろ)、福菓子、鉛貨(めんこ)、酸漿(ほゝづき)等の遊戲品より落花生、一文菓子、桂枝(につけい)、糖水、燒蜆(やきしじみ)、杏、卷鮨、砂糖漬等の食品に至るまで、小兒に依ツて望まるゝ千種萬樣奇々妙々么微(じんび)*3を極めたる斯の商品の買出しは彼らに依ツて十文錢市と呼ばれたる靑物市場の一廓にして、如何に多くの品物を仕入るも一軒の店にて二十錢以上を仕入るゝ客なく、一個の重箱に五錢の駄菓子を仕込み、一個の組箱に四錢の卷鮨を仕込み、或は三錢の蒸(ふか)し豆、二錢の鬼灯、或は一錢に五把(わ)の桂枝、四錢に二升の落花生、或は福袋四つ、豆鐵炮五本、或は燒蜆十串、糖水七罎。其仕込高を問へば甲の商店へ三錢五厘、乙の商店へ二錢八厘、左右五七軒の商店を渉獵(せうりう)してその仕入高を算するも合計廿五錢に登る者稀なり、而して其の仕拂金の種類多くはみな緡(さし)に維(つな)ぎたる者にして永錢*4、文久錢、靑錢*5、且今はこれ無しと難も四五年以前までは彼の頑骨(がんこつ)不靈なりし天保錢の重きもの這般(しゃはん)の取引社會に橫行したりと言ふ。