ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

うつせみ

蓮實重彥が黒沢清の映画について書いた時評に次のような文章がある。

活劇やホラーが「説明責任」の無視に終始するなら、ラヴストーリーは「説明責任」だけで成立している。

この「説明責任」という言葉を使わせてもらうと、一葉の作品『軒もる月』の話者は、そのような「説明責任」を果たしているようにはとても見えず、それを果たそうとしているのは袖の独白ばかりである。袖が櫻町の殿からの十二通の恋文を開封して次から次へと読むところを、話者は「心は大瀧にあたりて濁世の垢を流さんとせし、某の上人がためしにも同じく、戀人が涙の文字は幾筋の瀧の迸りにも似て、失はん心弱き女子ならば。」と言っているが、恋文を次々と読む行為を文覚の那智滝での荒行に喩えるのは、「説明責任」を果たすというよりも、それを無視した活劇化の方に近いと思う。

『うつせみ』という題は、時枝誠記の説明を思い出す。

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、從つて「空蝉の世」は、人の一生の義より轉じて、蝉の脫殼の如き無常空虛の世の義となり、更に「空蝉の殼」の如き語が生まれるようになつた。

一葉の『うつせみ』は、話者が「説明責任」を放棄し、一方、ヒロインの雪子が狂気に取憑かれたことで、誰も「説明責任」を果たそうとしていない貴重な作品だと思う。実験的な小説と言ってよいかもしれない。ただし、兄と呼ばれている男(正雄)は家の養子であり、雪子は「家につきての一粒もの」とあるので、雪子の「兄と言ふてはをりまするけれど。」という発言の断片から、薄々のことはちゃんと浮かびあがってくるようになっていてさすがである。

良(やゝ)しばしありて雪子は息の下に極めて恥かしげの低き聲して、もう後生お願ひで御座りまする、其事は言ふて下さりますな、其やうに仰せ下さりましても私(わたし)にはお返事の致しやうが御座りませぬと言ひ出づるに、何をと母が顏を出せば、あ、植村さん、植村さん、何處へお出(いで)遊ばすのと岸破(がば)と起きて、不意に驚く正雄の膝を突きのけつゝ椽(えん)の方へと驅け出(いだ)すに、それとて一同ばら〳〵と勝手より太吉おくらなど飛來るほどにさのみも行かず椽先の柱のもとにぴたりと坐して、堪忍して下され、私がわるう御座りました、始めから私が惡う御座りました、貴君(あなた)に惡い事は無い、私が、私が、申さないが惡う御座りました、兄と言ふては居りまするけれど。むせび泣きの聲きこえ初(そ)めて斷續の言葉その事とも聞わき難く、半(なかば)かかげし軒ばの簾(すだれ)、風に音する夕ぐれ淋し。