古文を読んでわからなくなることがあるのは、受動表現である。
かかれば、この人々、家に歸りて、ものを思ひ、祈りをし、願を立つ。思ひやむべくもあらず。「さりとも、つひに男婚 (あ) はせざらむやは」と思ひて、賴みをかけたり。あながちに心ざしを見え步く。
上の『竹取物語』の「心ざしを見え步く」がまさか受動表現とは思わなかった。
百人一首にもある凡河内躬恒の歌は、子規がいうように「初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる氣遣これなく候」かもしれないが、ここではこの歌が大袈裟かどうかについて確認したいわけではない。 二回繰り返される「折る」について考えてみたいだけである。最初の「折る」は他動詞で、二番目の「折る」は自動詞だとしたらどうだろう。「初霜が真っ白におりているので、白菊を当てずっぽうに折ったら、折れてしまうだろうか」と解釈することになるのではと思う。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
日本語はいまでも「燃やしたけれど燃えなかった」という表現が可能である。