よくできていると思うのは、最初の方の女に疑いをもった「をとこ」 が前栽の中に隠れている場面である。ト書きを入れればこうなる。
この女、いとよう假粧じて、うちながめて、
(をとこの疑い強くなる)
風吹けば 沖つ白浪 たつ……
(疑いピークに達する)
た山 夜半にや君が ひとりこゆらむ
(疑い一転し、女へのこの上ない愛おしさへ変わる)
この歌がよい歌かどうかは俄かにわかりかねるが、序詞が物語の転調として機能していると思う (ここで「機能している」とはもともとあるはずもなかった新たな意味へと虚構が言葉を開くことを言っている)。
また、この歌の中の「こ (越) ゆ」は、その前の二つの歌にある「過ぎにけらしな」「すぎぬ」と反復されている「過ぐ」の活用形 (計四回使われている) とも主題的に連携して物語の持続を支えている。
※ 以下は大変参考になった。
鈴木其一《伊勢物語図 高安の女》―その構図と「てんこ盛り」ごはんについて|山種美術館
むかし、田舍わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、大人になりにければ、をとこも女も恥ぢかはしてありけれど、をとこはこの女をこそ得めと思ふ。女はこのをとこをと思ひつゝ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、この鄰のをとこのもとよりかくなむ。
筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに
女、返し、
くらべこし振分髮も肩すぎぬ君ならずして 誰かあぐべき
などいひ〳〵て、つひに本意のごとくあひにけり。
さて、年ごろ經るほどに、女、親なく賴りなくなるまゝに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の國、高安の郡に、いきかよふ所出できにけり。さりけれど、このもとの女、惡しと思へるけしきもなくて、出しやりければ、をとこ、こと心ありてかゝるにやあらむと思ひうたがひて、前栽の中に隱れゐて、河内へいぬる顏にて見れば、この女、いとよう假粧じて、うちながめて、
風吹けば沖つ白浪たつた山夜半にや君がひとりこゆらむ
とよみけるをきゝて、限りなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。
まれ〳〵かの高安に來てみれば、初めこそ心にくもつくりけれ、今はうちとけて、手づからいひがいとりて、笥子のうつは物に盛りけるを見て、心うがりていかずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
君があたり見つゝを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも
といひて見いだすに、からうじて、大和人來むといへり。よろこびて待つに、たび〳〵過ぎぬれば、
君來むといひし夜ごとに過ぎぬれば賴まぬものの戀ひつゝぞふる
といひけれど、をとこ住まずなりにけり。