ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

陥没地帯 (121)

フィルムは現存しているものの、上映機会が限られ、未だに DVD にもなっていない、30 歳を超えたばかりの、しかしすでにベテランの域に達しているジョン・フォードが監督した『香りも高きケンタッキー』(Kentucky Pride, 1925) が、たとえ劣化したコピーであろうと YouTube で (現時点において) いつでも見ることができるのは、なにかの奇跡であると思ってしまう。気づいたときは、アップされてからすでに一ヶ月弱もが経過しており、ネットのリコメンド機能など何の役にもたたず、逆に見たくもない馬鹿げた情報を人に押しつけてくるものであることが、またしても証明されてしまった。何度でも言うが、ネットが最悪なのは、あたり前の、わかりやすいが誤りだらけの情報を増幅して拡散したり人に押しつけてくるときで (それは、いまや世界を崩壊させつつある)、最良なのは潜在化された貴重なものを顕在化してくれるときである。

そんな話はどうでもよくて、『香りも高きケンタッキー』を三度見て三度泣いてしまった。最初から最後まで、素直で美しいメロドラマであり、見るものの胸を衝いてやまない活劇であり、荒唐無稽な喜劇である。つまり、そこに映画だけがある。

1983 年夏のフィルムセンターのジョン・フォード特集*1でこの映画を「発見」した蓮實重彦は当時、こう書いている*2

この年齢になってから映画史でもっとも美しいシーンに出会って身を振るわせるというのはむしろ恥ずかしいことだと知っていながら、映画の効能の一つは恥も外聞もなく興奮に浸ることが許される点にあるので (以下略)

「映画史でもっとも美しいシーン」という評価は、文芸誌「文學界」で連載中の『ジョン・フォード論』第一章ーI 「馬など」においてもいささかも変わっていない*3。蓮實はそのことを二度も強調している。

しかし、わたくし個人としては、作品にこめられているこうしたテーマにもまして、フォードの演出の細部における冴えた繊細さに深く心を奪われずにはいられない。それには没落したボーモン氏 (注: ヘンリー・B・ウォルソール) が、いまは交通整理の警官として働いているかつての調教師ドノヴァン (注: J ・ファレル・マクドナルド) とともに、重い荷車を引いているヴァージニアズ・フューチャーと交差点で偶然にすれ違い、それと気づかぬままに別れてしまうという美しい——映画の歴史でもっとも美しいと断言することに何の誇張もない——シークェンスを思い出して見れば充分だろう。

(前略) このシークェンスは、あえてくり返すが、映画史でもっとも美しいと呼ぶこともいささかの誇張ではない光景として、見るものの心をぞわぞわと騒がせずにはおかない。

そして、『ジョン・フォード論』のこの章には、「ショットとは何か」に深く関連する次の記述が見られる。それは、ヘンリー・B・ウォルソールについてフォードが発言した、

この作品中では、彼は何もしなくてもよかった。ただそこにいるだけでよかった。ジョン・バリモアもそうだったが、ウォルソールのほうが、一枚上手の俳優だった。

後に続く文章である。

この「ただそこにいるだけでよかった」という存在感にこそ、彼の作品の人物や動物を鮮やかにきわだたせる秘密がひそんでいる。「存在感」という言葉がある種の鬱陶しさを示唆しがちだとするなら、よりいっそう希薄な「存在の気配」といいかえてもよい。

『香りも高きケンタッキー』の冒頭の数ショットで見るものを魅惑し、あらぬ錯覚へと導き入れたのも、「ただそこにいるだけでよかった」ともいうべき馬たちの「存在の気配」にほかならない。
(中略)
ジョン・フォードの真の偉大さは、走っている馬のみならず、立ち止まっている馬にもキャメラを向け、思わず手をのばして触れずにはいられなくなるその毛並みの艶にキャメラを向けることで、その希薄だがどこかしら生きていることの色気を漂わせてもいる「存在の気配」を、人間のそれにも劣らずにスクリーンに漂わせる術を心得ていたことにある。雨上がりの濡れた鋪道でそれをごくさりげなくやってみせることこそ、グリフィス以来、映画作家にとっての真の「伝統と義務」だったはずではなかっただろうか。

最後に、蓮實さんも書いているが、いつもは重い荷車を牽かされていたヴァージニアズ・フューチャーが、その同じ鋪道をドノヴァンを乗せて娘のレースを見るために晴れやかに走るほんの短いショットの対比は、人を幸福にしてやまない素晴らしいものである。

*1:MoMA の協力を得て 1917 年の『譽の名手』から 1946 年の『荒野の決闘』までジョン・フォード監督作品 31 本が上映された。

*2:「話の特集」に当時連載されていた見開き 2 頁の映画コラムをまとめた『シネマの煽動装置』(1985) に所収されている。なお、まだ「マリ・クレール」ではなく「ブルータス」だったように思うが、当時の関連の文章を読むことができる (『映画に目が眩んで』(1991) 所収)

*3:この文章の母体として、以下の "Touching the Glossy Coat of a Horse. John Ford's Kentucky Pride" が存在している。 また、この英文をもとにした日本語の「思わず触れたくなるような艶やかな馬の毛並みにキャメラを向ける」が『映画時評 2009-2011』にある。また、『映画時評 2012-2014』のスティーヴン・スピルバーグの『戦火の馬』(2011) 評でもこの作品が触れられている。