ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

陥没地帯 (119)

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再び映画に戻る。『ショットとは何か』の V でアンナ・マニヤーニが出演した映画が 2 本取り上げられている。それで、『映画千一夜』で淀川長治さんが彼女についていっていたことを読み返したりした。

アンナ・マニヤーニは、あんな顔しとって、全身これ女ね。それも、一筋縄の女じゃないの。かしこくて、かしこくて、なみのかしこさじゃない。セクシーいうよりも女そのものの女なの。いじらしい女でもないの。にくらしいほど女そのものなのね。ぼく、それが好きなの。あの人、ベチャベチャしゃべり回るでしょう。関西の芦屋のおばさんにあんなのがいるのよ、あんなんが (笑)。もう人のことほったらかしてしゃべるの、あれによく似ててさ、「ちょっと黙りなさい」言いたいのがいるのよ (笑)。もうあれとそっくりなの。ハンドバッグから薬をだして、かじったりとかね。ああいう人、好きだね。

アンナ・マニヤーニが出てたら、口あけて見ほれてしまうもん。女の人とはこれだ、つまり、不潔とか、清潔とか、美女とか醜女とかじゃないの。女とはこれだというね。全身にあふれた女の女の女の香り。この人こそ女性だと思う。わあーと思うね。アンナ・マニヤーニ、ぼくは最高に好きですよ。『映画の友』にいたとき、アンナ・マニヤーニを表紙にしようとして怒られちゃってさ。売れませんて言われて (笑)。でも、アンナ・マニヤーニって綺麗よ。なかなか美人よねぇ。

どこをとっても面白く充実している『映画千夜一夜』は、80 年代でもっとも幸福な時間のひとつを提供してくれたが、このあたりはとりわけ面白い。

淀川:
そう、それから『われら女性』もよかったでしょう。喧嘩して、喧嘩して、犬持って、タクシー乗って喧嘩ばっかりするやつ。あれもよかったでしょう。

蓮實:
最後に劇場にかけつけて歌を歌うんですが、あの歌がまたすばらしい。〽︎月が美しくて……とかいう、たわいない歌詞なんですが、あんなに美しいクローズアップは観たことがない*1

山田:
『われら女性』はオムニバス映画で、アンナ・マニヤーニの出たのはルキノ・ヴィスコンティ監督でしたね。最後の第五話で、あの歌が映画そのもののフィナーレにぴったりだった。それからロベルト・ロッセリーニ監督の篇でイングリッド・バーグマンも出ていましたね。アンナ・マニヤーニのあとロッセリーニ夫人になって。

山田さんは知っていて、わざとバーグマンの名前を出したんだなあ。

淀川:
そう、そう。アンナ・マニヤーニに負けまいとして、農夫になって、ニワトリを飼ってさ。田舎くさいの、バーグマンってね。ぼく、バーグマン嫌いなの、田舎くさいから (笑)。

蓮實:
ぼくもバーグマンは嫌いです (笑)。

淀川:
まあ困った。ここでも気があった (笑)。

山田:
バーグマンは『ジャンヌ・ダーク』を演ったり、舞台でも演ってるし、ロッセリーニ監督も『火刑台のジャンヌ』を演ってますね。そんな聖女ぶるところが蓮實さんは嫌いなんだと思います。

淀川:
そうなの。あんなの嫌いなの。

蓮實:
そう、最悪ですよ (笑)。馬鹿なことに、うちの家内はバーグマンを好きなんですね (笑)。

淀川:
そういうもんですよ。同じようだったら夫婦になれないね。山田さん、そうでしょ?

山田:
ぼく、バーグマンも一時すごく好きだったんですけど (笑)。

いつまでも引用していたいが、長くなるので止める。興味をさらに引くのは、ロベルト・ロッセリーニ監督の『ストロンボリ』(1949) の評価を巡って、詳しくは書かれていないけれども、山田さんはバーグマンも映画もよかったといってるように受けとれるし、蓮實さんは両方ダメを出していて、淀川さんは作品はいいけど、バーグマンは泥臭いといっていることである。

僕は『ストロンボリ』の中で、バーグマンの髪が風になびき、頬に涙が伝わる、ほんの数秒のクローズアップにすっかりやられた口なので、山田さんの意見に近いんだけれども、その後、バーグマンが神に祈って、

「神様、どうかお助けくださいませ」
「力をお与えくださいませ」
「理解と勇気とをお与えくださいませ」
「神様!神様!お慈悲深い神様!神様!」

とか演技しているのを見ると、クライマックスをいたずらに引き延ばしているようにも見える。*2

そもそも、1945 年のあまりにも名高い作品で、アンナ・マニヤーニが「フランチェスコ! フランチェスコ! フランチェスコ!」と『神の道化師 フランチェスコ』の聖者からとられた名前を呼び続けるあまりにも名高いあのシーンが衝撃をいまも与え続けているのは、映画のショットがそもそも潜在させている「鋭く断ち切る」という性質をロッセリーニが顕在化させることに成功したからではないだろうか。

この場面では、マニヤーニをどの兵士が狙撃したのか、その銃で撃つカットさえ省略されており、オフの画面として銃の音を入れてあるだけである。マニヤーニの顔は一切クローズアップでは捉えられておらず、キャメラは引きぎみに全身女そのものとしかいいようのない存在感のマニヤーニを後退するキャメラで捉えている。マニヤーニが倒れる瞬間をスローモーションで示して引き延ばすようなことはもちろんしていない。たしかに、最後に子供を母親であるマニヤーニのもとに駆け寄らせるショットがあるのは事実である。しかし、ロッセリーニはその子供の顔をアップにして、えんえんと母親にすがりつく場面を見せたり、そこに流れる涙をアップで見せたりはしていない。ロッセリーニは、まるでマニヤーニの死に対する感傷をすべて断ち切るかのようにさっと短くフェイドアウトさせてしまっている。音楽も次のシーンにつなぐように最後に少し挿入されているだけである。マニヤーニという存在によるその圧倒的な運動を鋭く断ち切ってみせたことで、見る人には未知の衝撃が伝わったのである。それは映画のショットが与えた衝撃である。それに較べれば、『ストロンボリ』の火口のシーンはたしかに余分なもの、余分な台詞が多すぎる (「ディオ」という言葉の反復だけでじゅうぶんだ)。でも、あのバーグマンのクローズアップはたしかに記憶に残っている。


*1:『映画に目が眩んで』(1991) 所収の「ロカルノでめぐり逢ったアンナ・マニャーニはまぎれもなく映画の顔をしていた」参照。

*2: このシーンでは、バーグマンが演じる絶望した身重の女が、島を脱出するため、活動を続ける火山を越えようとする。そして、夜、火口の近くで、ついに力つきてしまう。 「終わりだわ、もう駄目」 「歩けないわ」 「死にたいわ」 「でも、死ぬ勇気もない」 「死ぬのは怖いわ」 彼女は、そこで、星空に向かい神に祈る。 「神様(ディオ)」 「もしいらっしゃるのなら、私を助けてください」 「助けてください」 そして、意識を失った彼女が、翌朝目をさますと、火山の活動はすっかり弱まっている。 「ああ、神様(ディオ)、なんて不思議なの」 「なんて、美しいの、神様(ディオ)、奇跡だわ」 そして、彼女は、再び起きあがって、もときた場所に戻ろうとする。 「駄目よ、戻れないわ」 「戻りたくない」 「恐ろしいわ。なにもかも。冷たい人たち……」 「私も悪いわ。あなた(胎児のこと)を道連れにはしないわよ」 このとき、バーグマンの髪が風になびき、頬に涙が伝わるほんの数秒のクローズアップがある。 そして、彼女は再び神に祈る。 「神様、どうかお助けくださいませ」 「力をお与えくださいませ」 「理解と勇気とをお与えくださいませ」 「神様!神様!お慈悲深い神様!神様!」