ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

陥没地帯 (112)

藪柑子が出てくる俳句をいろいろと見ていると、岡田史乃という方の

日没は四時三十二分薮柑子

という句もとても面白いなあと思って、日の出、日の入りの時刻をネットで調べていたら、中学の理科とかでは太陽の南中する時刻は (同じ経度で) 一定と習うけれども、年間 30 分ぐらい時間変動していることに気がついた。もしかしたら、地球の公転軌道が実際には楕円で、ケプラーの第二法則で公転速度が年間変動し、その影響で地球自転速度 (公転による自転のこと) も変動している証拠ではないかと思って調べたら、半分当たりであったが、地球の地軸の傾きの影響を考慮に入れることは完全に見落としていた。

今年の受験生はコロナ禍で不確定要素が増えて大変だなあと同情しつつ元旦にも勉強している子も中にはいるだろうなあと思い、何を書いてよいかわからない元旦の記事にならばいっそ「ならば (含意)」について書いてみることにした。数学で論理を操る「機能語」は、つまるところ「でない」「ならば」「かつ」「または」「同値 (必要十分)」「すべての」「(ある条件を満たすものが) 存在する」という、たった 7 つしかないのだが、このうち「ならば」はなかなか捉え難い面があり、実際きちんと理解されていることが非常に少ない気がしたからである。

理解するやり方としては、数学の場合はやっぱり「集合」が根底にあるのだから、たとえ「論理」でも、迷ったら常にそこに立ち返れば少しは見通しがえられるのかなあと考えた。


集合の要素とは、ある条件が真となるようなモノであった。たとえば、「自然数  n で、n2 の倍数である」という条件を真とする要素は, 自然数の部分集合である偶数に属すことができるという具合になっている。

※ 偶数の集合の内包的定義は、

\{x| \text{ある自然数} \ n \ \text{について}\ x = 2n\}

となる。
//

p ならば q である」という命題は、命題 p と 命題 q を組合わせて作った新たな命題である。いま、全体集合を  \mathrm{E} として、条件  p(x) を真にする  \mathrm{E} の部分集合  P を「条件  p(x) の真集合」、条件  q(x) を真にする  \mathrm{E} の部分集合 Q を「条件  q(x) の真集合」と呼ぶことにする。つまり、

P = \{x \in \mathrm{E}| \ p(x)\ \text{は真.}\}
 Q = \{x \in \mathrm{E}| \ q(x)\ \text{は真.}\}

である。

ここで、「任意の   x \in \mathrm{E}p(x) ならば q(x) である」という命題が真であるとは、真集合  P が真集合 Q の部分集合であるときと定めてみる。

 P \subset Q

命題  p のことを「仮定」、命題 q のことを「結論」といったりする 。また、命題「p ならば q である」が真であるとき 、仮定  p のことを「十分条件」、結論 q のことを「必要条件」と呼ぶこともある。条件が厳しくなればなるほど、条件に当てはまるモノは一般に少なくなっていくので、「十分」は「必要」よりも制約の強い条件だと考えれば、その語感は少ししっくりくるのではないだろうか。条件の制約が緩いほど真集合をあらわす円の方は大きくなるのである。

数学者の森毅がなにかの本でこんな問題を出していたなあ。いまでも覚えている。

【問】
 \{(x, y) \in \mathrm{R} \times \mathrm{R} | x \leq c \Rightarrow y \leq c \}
という直積集合の要素の存在範囲を xy グラフに図示せよ。
【解】
この場合、 x \leq c y \leq c の両方を満たす領域を図示して解とするのは誤りである。

 x \leq c かつ  y \gt c の領域を  \mathrm{R}^2 から除外してやれば、仮定の真集合は、結論の真集合に含まれるようになる。 x \leq c \Rightarrow y \leq c はその除外した領域以外の  \mathrm{R}^2 領域で真となり、それが問の集合の要素の存在範囲である。
//

条件 p(x) を真にするモノがなければ、真集合 P は空集合  \emptyset である。空集合  \emptyset は任意の集合の部分集合であったので「任意の x について  p(x) ならば q(x) である」は真になる。*1 しかし, これから q(x) が真であるとは結論できない。 x が、 p(x) を真にすることを示せて「 p(x) ならば」という仮定を落として  q(x) が真であるとはじめて証明できる。

数学の命題というのは真偽どちらか一方に必ず決まるものだったので、条件  p(x) を「否定」した条件  \neg p(x) に対応する真集合は  P の補集合  \mathrm{E }- P であり、条件 q(x) を「否定」した条件  \neg q(x) に対応した真集合は、 Q の補集合  \mathrm{E} - Q である。ここで、任意の x について  p(x) \Rightarrow q(x) が常に真であることと

 P \subset Q

であることは同値であった。このときちょっと考えればわかるように、

 \mathrm{E} - P \supset \mathrm{E} - Q

も成立している。つまり、「任意の  x について, q(x) でないならば p(x) でない」も常に真である。逆に、

 \mathrm{E} - P \supset \mathrm{E}- Q

であれば

 P \subset Q

であることも自明である。したがって、

 \mathrm{E} - Q \subset \mathrm{E} - P (任意の x について  \neg q(x) \Rightarrow \neg p(x))

であることは、

 P \subset Q ( 任意の  x について  p(x) \Rightarrow q(x))

であるための必要十分条件である*2。この必要十分関係を利用したのが「対偶による証明」である。

たとえば、

「任意の自然数 n において 、 n^2 + 1 が偶数であるならば、 n は奇数である」

の対偶命題は、

「任意の自然数 n において 、n が偶数であるならば、 n^2 + 1 は奇数である」

となる。最初の命題と対偶命題は必要十分だったので、対偶命題を証明すればよい。

【対偶による証明】

 N_1= \{n \in N | n\ is\ even. \}
 N_2 = \{ n \in N | (n^2 + 1) \ is\ odd. \}

とする。任意の  n \in N_1 に対して、

 n \equiv 0\  (\mathrm{mod}\  2)

だから、

 n^2 + 1 \equiv 1 \ (\mathrm{mod}\  2)

したがって、  n \in N_2 である。これから  N_1 \subset N_2 がいえる。 //

ところで、

 P \subset Q、つまり「任意の x p(x) \Rightarrow q (x)」という命題が真であるとき、真集合  P の要素は 、例外なく 真集合  Q の要素である。すると「任意の  x \in \mathrm{E} p(x) \Rightarrow q (x)」という命題が偽であるというのは、真集合  P の要素で、条件  q(x) を偽とする  x \in P少なくともひとつ存在するということである。これをもっと簡単にいえば「反例」が存在するということになる。

 P \subset Q でない」集合図をあれこれ書いてみると、 P Q から、ほんの一部でもはみ出していれば、「 P \subset Qでない」ということである。この場合、

 P \cap (\mathrm{E} - Q)  \neq \emptyset

となることに注意する。

一方、 P \subset Q (任意の x \in  E p(x) \Rightarrow q(x) が真) であることは

 P \cap (\mathrm{E} - Q)  = \emptyset

であることと同値になる (証明は簡単なので省略する。 P \subset Q から  P = P \cap Q であること、逆はここで説明する背理法を使えばよい)。集合のド・モルガンの法則を使ってさらに同値変形すれば、

 (\mathrm{E} - P) \cup Q = \mathrm{E}
 \{x \in \mathrm{E}| \neg p(x) \vee q(x) \ is\ true. \} = \mathrm{E}

である。したがって、これを命題についてあらわせば、「 p \Rightarrow q 」と「 p でないか、または  q である」——あるいは「p であって q でないということはない」——は必要十分という関係がえられる。

例として、

「任意の自然数 n において 、 n^2 + 1 が偶数ならば、 n は奇数である」

の否定命題は、

「ある自然数  n で、 n^2 + 1 が偶数であり、かつ、 n が偶数であるような  n が存在する」

ということになる。この否定命題が正しいと仮定して矛盾 ( 「常に偽」  \bot であることを矛盾と呼ぶ。p がなんであれ,  p かつ  \neg p が矛盾であることは数学の通常の論理体系では推論規則となっており矛盾律と呼ばれる) を導き、否定命題が再否定され、最初の命題は真である (否定命題を再び否定したものは最初の命題であるとすることは,  p または  \neg p が「常に真」\top であるとする排中律を推論規則として認めているのと同じことである) と証明するのが (狭義の)「背理法」である。もともと,  \lnot p p \rightarrow \bot によって定義されているのである.

【背理法による証明】

「ある自然数  n で、n^2 + 1 が偶数で、かつ  n が偶数であるものが存在する」と仮定する。

 n \equiv 0 \ (\mathrm{mod}\ 2)

であるので、

 n^2 + 1 \equiv 1 \ (\mathrm{mod} \  2)

である。これは、 n^2 + 1 が偶数であることと矛盾する。//

以上から、この例題の場合、対偶によっても背理法によっても命題が真であることを証明できた。だからといって一般にふたつが同じ証明法といえないことは、あたり前である。

*1:数学や論理というゲームの世界で使われる「ならば」は、自然言語の「ならば」とは使い方がかなり異なる。たとえば、「もし僕がアメリカ合衆国国民であるならば、トランプに投票する」は日常語の感覚では偽だが、「僕がアメリカ合衆国国民である」は偽なので数学 (古典論理) 的には真となる。このような違いはこれに限ったことではなく、たとえば、数学の命題は真か偽かのどちらか一方に定まる排中律が成立することを前提にしているが、その排中律を無自覚に検証のないまま実世界に適用して「人間は男であるか男でないかのどちらかである」みたいな言明が真であると主張すれば、忌まわしい差別主義者にすぎなくなってしまう。そもそも「真」であることを希求するという前提自体、数学ゲームを楽しむための規則としては必要だが、それは必ずしも人生の規則ではなく、現実の荒唐無稽さから眼をそらし、回避するための通俗性 (つまり、何か正当と思われる理由を捏造しない限り、生がもっている荒唐無稽さに対処できない姿勢や、その荒唐無稽に驚く感性の不在のこと) からきていることがしばしばである。

*2:命題  X と 命題  Y が必要十分であるとは、 X Y の両方とも真であるか偽であること (真理値が真理表で一致すること) と定義されるが、これは  X が真のとき  Y も真であり、かつ  Y が真のとき  X も真であることである (対偶をとれば明らか)。さらに別の表現をすれば  X (Y) が真であるときのみ  Y (X) が真であるということである。