ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

潜在的なものが目覚めるとき

前にもどこかで書いた気がするが、アブダクションとは C. S. パースが「演繹」「帰納」とは異なる次のような推論として導入したものである。

:出来事 q がある

:仮説 p だったら q を矛盾なく説明できる

:だったら仮説 p はいくつも存在しえる解釈のひとつになっているかもしれない

ということである。これは、論理的に見れば、「p → q および q である」という前提から 「p である」という結論を導くものだから、明らかに一般には正しくない。アブダクション は「対称バイアス」 によって、p → q のとき逆の q → p も成立することに賭けて、p が真であると主張するものであるといえるのかもしれない。前の記事では誤謬を生む原因であった「対称バイアス」は、ここでは潜在的なものを顕在化させる創造、発見の神秘的瞬間に必要不可欠できわめて有効なものとなっており、その融通無碍な自在さが面白い。

人は様々に「対称バイアス」を使いわけている。たとえば、コレラならば下痢をするからといって、いまの日本で下痢をしたときにコレラをまず疑う人は極めて少ないだろう。この場合の対称バイアスは、いまの日本にコレラの感染者はきわめて少ないという事前知識によってコレラと下痢の基準率は大きく偏っていると認識されることから等確率のバイアスは、あらかじめ阻止されていると考えられる。しかし、いまなら肺炎になったときに新型コロナウィルスの感染を疑ってしまう人も多いのではないだろうか。また昔、タミフルの服用が異常行動を引き起こすと騒がれたときに、異常行動を起こしたものの六割がタミフルを服用していたと新聞が書いたことがあったが、その言明は論理的には直接タミフルの服用が異常行動の原因であるとする根拠にはならない。だからといってまったく無関係とも言い切れないような気がしてしまう—— なお、今では因果関係は認められないとされている。

蓮實重彥の「主題論」も、どこか「古論理」とか「パレオ・ロジック」とか呼ばれるものに通じている気がすると書いたのは覚えているが、その「古論理」自体、対称バイアスと関係していると思う (論理的に正しい三段論法の前提条件のひとつを逆命題にしてしまえば古論理になる)。蓮實重彥の主題論は作品の枠すら超えた広い——「広い」には時間的な広がりという意味も含めている——探索空間の中で思いもかけない潜在的な細部——それは全体へのモーメントをもった細部である——を覚醒させる力をもっているからこそ、きわめて創造的な側面を有するのであって、これを分かりきったことを対象にしてやれば、それこそ「説話論的磁場」に囚われていると「物語批判」の対象になってしまう。