ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

正常化の偏見

退潮期のハリウッド映画では、大作化、ビジュアル化が進み、一時期「パニック・ムービー」と呼ばれるジャンルが盛んに製作されたのは映画史の退屈な復習に過ぎない。あるいは日本の『ゴジラ』(1954) をはじめとする怪獣映画などももしかして関係しているのかもしれないが、いずれにせよ虚構に過ぎないそれらの作品のたんなるお約束ごとの展開にたいして、作品を物語としてしか見ることができない妙に生真面目なひとたちが確実にいて、安心できる希薄なわかりやすいイメージとしてそれを共有してしまったということも、もしかしてあるのかもしれない。ここで「それ」というのは、災害が起きるとひとはきまって冷静さを欠いてパニックになるのだという紋切り型の神話的イメージのことであるが、それが 21 世紀の現在においてもいまだに執拗に思考の前提として存在していることにひたすら驚く。

災害という極限条件で、人が冷静さを欠いてパニックに陥る振る舞いをするなどということが皆無だというつもりはもちろんないが、近年の災害では、特定の条件の場合だけに当てはまる比較的稀な事象であり、それよりもなによりも被害を徒らに拡大させてしまうのは、リスクを矮小化して認知してしまう「正常化の偏見」とか「正常化バイアス」とか言われるものや「同調バイアス」にもとづいているということは、死者が二万人近くに及んだ近年の大震災のときにすでに何度も専門家によって指摘されていて記憶にも新しいのだから、ここではそれをあえて繰りかえす必要には及ばないはずである。

今回のウィルスについても、すでに記事で書いたように自分が電車の中や他で実際に目にしたごく狭い経験の範囲では—— それを敷衍して一般化するつもりはなく、もしかして間違っているのかもしれないが —— メディアのセンセーショナルな扱いとはまったく裏腹に、人はいささかも冷静さなど欠いておらず、事態はむしろまったく逆で、せいぜい芸能人の不倫報道と同程度かあるいはそれ以下の消極的な関心しか抱いておらず、連日連夜、同じ「ネタ」ばかりやるメディアに退屈感さえ覚えているような人たちが確実に存在しさえすると感じる。災害時に日常必需品の需要が高まり、先延ばし購入可能なものの需要が落ちるのも、誰が考えたって経済的には合理的行為である し、買占めが起きるのもゲーム理論の有名な均衡のひとつの実例としての反復にすぎない。ここでも「ショック」が使われている、1970 年代の「オイル・ショック」で起きたことが、現代の日本においてすら起きたことに驚く人もいたが、事態はまったく逆で、当時は公的機関が紙資源の供給に対する懸念を表明したことがきっかけであり、虚構にしても情報を信じさせるだけのそれなりのもっともらしさはあったのだが、今回のくだらない SNS の発言はどう考えたって悪戯であることがわかる内容であり、そもそもそれがあたりに拡散してしまうという「同調バイアス」の酷さは、過去の事象と較べてもより低レベルとしかいいようがない。

緩慢に、だが下手をすれば指数的に拡大してしまう災害でとくに問題なのは、ひとが冷静さを欠いてパニックに陥いるといったことではいささかもなく、「ネット上の空論」が強化してしまう「同調バイアス」やリアルな危機を矮小化してしまう「正常化バイアス」である。