ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

悦ばしき変化(2)

春の陽気である。今年は静かに花見はできるし、交通機関はすいているし最高だなあ。

パンデミックの初期段階で、疾病の治療/予防方法(たとえば、ワクチン)が確立されるまでの間、実行可能な政策的な選択肢というのは誰が考えたところで、感染拡大を抑制、遅延させるために不要不急な社会活動や経済活動を制限することぐらいしかない。したがって、それらの政策は必ず経済損失を伴うものである。経済損失が嫌だからといって、活動制限を緩めすぎると、感染が拡大し死者が増えるし、トリアージ (triage) と呼ばれる重症度に応じた患者の段階的選別にもとづく医学的処置を実施したとしても、重症患者が病院の入院能力(ベッド数、隔離環境、対応できる医療従事者など)を超えて病院システムが破綻してしまえば、ウィルスによる致死率が跳ね上がるだけでなく、医療資源をその対策に奪われることによって、その他の疾病の致死率をも高めてしまう――マスクの売り切れどころの話ではすまないのだ。したがって、これはトレードオフであり、どの具体的政策をどのタイミングで実施すべきかは、信頼のできる専門家が数理的モデルなどを使って慎重に、しかし素早く検討すべき話ではないかと思う。個人のリーダーシップやら、専門家会議というものの憂慮すべき限界は、限られた情報や十分検討されたとは言い難い、暫定的であるべきはずの結論が、どうせ決まったことだからという、思考停止をあたりにいきわたらせることである。せっかく、コロナ・ウィルスという「過剰」なものが思考を開始させ、普段と比較すれば制限された活動の「中断」が、「接続過多&低生産性社会」を問い直す質的変化への契機を与えてくれたというのに、またいつものやり方では台無しになりはしまいか。

実際に経済活動が制限されるのだから、株式市場がそれに反応するのはわかりきった話であり、ある程度「不況」になるのはやむをえない。経済の専門家はまさかそれぐらいのことは承知していると思うので、感染拡大抑制策がとられている間、緊縮財政が取られることは絶対にないだろう(ただし医療予算は感染抑制対策に優先的に費われる)。

去年の 6 月頃、「年金二千万円」の報道のとき、まさか大不況がくる蓋然性の高い当時のタイミングで、老齢の素人に、元本割れの危険性が高い金融商品の購入を暗に推奨するのは、もちろん合法だとはいっても、ほとんど振り込め詐欺ではないかと老婆心ながら触れたことがあるけれども、今後の市場の展開によっては投資を考えてもよいかもしれない ――もちろん、底だと思うタイミング判断が重要だし、世界経済が過去のように復活するはずだというのは自明なこととはいえないので、リスクは残る。