自宅から一番近くにある湧水地——鵠沼海岸で相模湾に注ぐ引地川の源流にあたる——がある泉の森公園を散歩していると、スプリング・エフェメラル (Spring Ephemeral) 、カタクリの蕾が出ていた。
以前の記事にも書いたことがあるが、自分は東京オリンピックが終わったぐらいに未曾有の大不況がくるのではと何の根拠もなしに思っていた。
伯爵夫人の言葉である、
でもね、二郎さん、この世界の均衡なんて、ほんのちょっとしたことで崩れてしまうものなのです。あるいは、崩れていながらも均衡が保たれているような錯覚をあたりに行きわたらせてしまうのが、この世界なのかもしれません。
「ほんのちょっとしたこと」とは、中野重治の「ちょっとの違い」とどこかで通じあっている「全体」へのモーメントをもった細部のことだが、それが「新型コロナウィルス」でもなんでも構わないだろう。今回の愚かしい騒ぎが悦ばしき変化に通じればよいと思う。「巣ごもり消費」が明らかに増えているが、テロやパンデミックの恐怖は、方向性としてはフィンテックや MaaS (Mobile as a Service)、遠隔教育、遠隔医療などの分散型の産業を拡大することを加速する。どうせ、既存の構造、制度に固執していたって何も変わらないのだから、一時的には混乱するにしても、今回のような外的要因は、むしろ悦ばしい。現在の社会がもっている潜在力がこの程度のクライシスに本来対応できないはずはなく、それすらできないとしたら、それは常に細部からはじまる変化を受け入れようとはしない、ずるずると引き摺ってきた制度的に凝り固まったイメージにもとづく思考のせいである。伯爵夫人の言葉を操作したと想定される主体は、過去にこう語りかけていたではないか。
実際、真の出会いは、一般性の秩序が崩れる瞬間に生きられるものです。真の知性が発揮されるのも、そうした瞬間にほかなりません。「危機管理」という言葉で呼ばれているものの質が問われるのは、まさに、一般性の秩序の崩壊に直面したときなのです。しかし、それは、大災害や外敵の襲撃といった、例外的な事態に限られているわけではありません。学問上の新発見から恋愛にいたるまで、世界がいきなりその表情を変えてしまうかと思えるような瞬間は、いたるところで体験されています。ある音楽、ある絵画、ある小説との決定的な出会い、対人関係の理不尽な破綻、偶然に弄ばれること、意識されざる記憶のよみがえり、等々、これまでにつみあげてきた知識の総体がなんの役にもたたなくなるような事態が決まって訪れます。一般性の秩序がいきなり機能不全に陥るときのこうした戸惑いを「驚き」と呼ぶなら、知性はそうした「驚き」によって、初めて確かなかたちをとるものなのです。
ということで、同じ人が書いている今月号の「文學界」の次の言葉を吟味する——まだよくわからないけど。
『荒野の女たち』を驚くべき作品に仕立てあげているのは、これまでにフィクションにほかならぬ意義深い細部の饗応によって織りあげられてきたもろもろの一貫性を、あからさまに崩壊させることも辞さないというかのようなジョン・フォードの覚悟のようなものが、この作品の画面からうかがわれるという否定しがたい現実なのである。