ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

マスク

通勤電車の混雑した車内でマスクをしている人がさすがに増えた。マスクの効果については、昔からいろいろと議論があり、手洗いの場合に匹敵するような高度なエビデンスも(自分が知るかぎり)存在していない。そのような予防法をどう見るかは色々な考え方があって当然だし、真偽がすぐに決められないものに対して、多くの人が同じ行動をとるのは、いかにも気持ち悪いなあと思う。そうは思うんだが、自分も混雑した電車の中ではマスクをしている。理由は、このウィルスに感染している場合、明確な症状がなくても他人への感染力があるらしいことが一つ。また新型コロナの検査は物理的/人的能力やスループットも不足している上、スクリーニングではなく、確定診断的にしか実施されておらず——もっとものようなやり方にみえるが、致死率が比較的高いことがわかっている高齢者や基礎疾患をもった人に対しても、杓子定規にギリギリとなるまで検査を適用せず、手遅れとなりやすい状況を作っているのではないか?——その上、検査の感度はインフルエンザ検査と同程度と考えれば、せいぜい60%ぐらいなので偽陰性も結構でる。つまり、自分が実際に感染しているか感染していないかは日本では容易には結論がでない。まとめると、もし自分が感染者であれば他人に感染(うつ)す可能性があり、自分が感染者であるかないかは容易には確認できないから、飛沫感染の怖れがある状況ではマスクをする。希少な検査能力は優先的に高齢者や基礎疾患をもった人に割当て、マスクを国が買い上げて住民に支給するという政策は実施されても別に驚かないし、早くやっていればもっと評価できた。

というわけで、今日も電車の中でマスクをしながら、人もしているマスクをぼんやりと見ているうちに、小津安二郎監督の『東京暮色』(1957) に出てくる原節子がつけた白いマスクのことを思いだして心地よい別の世界へトリップしそうになった。その瞬間、その遷移を押しとどめるかのように、微妙ではあるが、何かが決定的に違っている感覚に襲われた——それが何であるか咄嗟にはわからなかった。しかし、やがてそれはマスクの裏表の解釈が自分と大部分の人とは異なっている発見のためであるとわかった。人とは考えが違っているのには慣れているが、それでも心配になって念のため自分の携帯電話からググってみると、マスクは紐がついている側が表面になるように顔につけると書いてある。理由は自分が考えていたのと同じで、その方がマスクの顔への密着性が高まるからである。まあ、単に飛沫(要するに唾または鼻水が微少な霧状の水滴になったものである)が遠くへ飛び散るのを防止すればよいだけのものに過ぎないので、パンツやシャツの裏表と一緒の、見栄えを重視する日常センスでマスクしたってよいじゃないかという考え方も当然あるだろうし、まさか「ちょっとの違い、それが困る」などと息巻くつもりも全然ない。(でも、流石に鼻とか丸出しの人——顔認証を機能させるためなのだろうか?——がいると、複雑な気持ちになるのを抑えることが難しくなる。) マスクに予防への有効性についての高度なエビデンスがないのは、他の人が着けているのだから、雰囲気だけは自分も同じことをしておけば大きな間違いはなかろうという心理や、現在希少となっているものを自分は所有しているという顕示的消費欲の現れかもしれない。