ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

見てられない

今週の休日も座間に行って湧水巡りしながら散歩した。上の写真は龍源院の崖下から湧き出ている水の流れの中にある小さな不動明王像。人はほとんどいないし、水の流れは清らかだし、樹がたくさんあるし、本当にのんびりできるなあ。駅からそれほど遠くないところに、こんな環境があるなんて素晴らしい。

ほんの少しの時間、休日でガラガラの小田急線に乗ったんだけれど、前の入口ドアの近くに座った女が大きなくしゃみをして、あー、これは手摺りに飛沫が付着したぞと思っていたら、次の駅でその女は下車して、代わりに赤ちゃん連れの夫婦が乗車してきた。男の方が赤ちゃんを抱いて、吊革を赤ちゃんの手に触らして遊ばせている。そんなことよせばいいのにと思っていたら、男は先ほどの女の人が座っていた座席に赤ちゃんを置いて、自分は席の前にしゃがんで飛沫が付着しただろう手摺りを左手で握った。なんともはや、どこまでも不用意な奴、と思って見ていたら、なんとその同じ手で赤ちゃんの顔を触りまくっている。世の中、まったく泰平である。飛沫感染とか接触感染とかあれほどネット、新聞、テレビその他で連日騒ぎまくっていてもほとんど現実の生活に役にたっていないということがよくわかった。いくら致死率がそれほど高くないといったって、死亡者の総数は単純には「感染者数 x 致死率」なんだから、感染者が多量に出れば致死率が多少低くても——といっても、もちろん季節性インフルエンザの致死率にくらべれば、はるかに高い (現状推定の数値では数十倍高い)——死者の絶対数は増えるわけだし、検査で陽性になった数と感染者数を同一視することは、それこそ「対称性バイアス」の典型なんだけど、そんな単純と思える理屈もわからない人にはわからないんだろうし、芸能人の不倫ネタと違って興味も湧かないんだろう。

散歩から帰って、中野重治のエッセイを読んでいたら 1936 年のものの一つに『オリンピックと日本』というのがあって、ちょっとではあるが面白い。もちろん、ここでのオリンピックとはベルリン・オリンピックの後に東京開催が予定されていたが幻に終わったオリンピックのことである。なんでも、当時、オリンピックの開催が決まって、日本人の公徳心が弱いとかもっと強くせねばならぬとかいう議論が盛んになったらしい。それを中野は、

なるほど日本東京の舗道は紙くずだらけ、公園や遊園地は紙くず、竹の皮、蜜柑の皮だらけ、痰唾ときては国じゅう吐きすて勝手放題だ。

と書いている。だからといって、中野は公徳心を強くせねばという議論には与しない。

日本人の弱い公徳心は何によっても弁護されはしない。しかし、弱い公徳心が何に由来するかを見ぬ公徳心論者はしょせんわれらに無縁なお説教屋に過ぎぬのではないか。彼らにしてみれば考えたことさえないのかも知れないが、ここに一つの国民があって、国の政治にはてんで無頓着だが、道ばたの痰や紙くずにはおそろしく潔癖だとしたら、そういう国民は国民としても人間としても片端(かたわ)だといわねばなるまい。電車の床へ痰を吐きだしてそれを下駄の歯で踏みつぶすのこそ日本人に強いられた政治的沈黙に釣りあった日本人的公徳心なのだ。

それからこうも書いている。

東京オリンピックで誰がどれほどもうけるのか私は知らないが、あれこれ考えあわせてみると、たとえ日本へそれほど金が落ちなくても日本は躍起となってオリンピックを呼び寄せたろうと思われる。国民の健康の問題などはほんとうの中心問題ではない。国内的国際的な政治的事情が全問題の下にあるような気がする。

※ ここで「国民の健康の問題」と中野が書いているのは、ベルリン・オリンピックでの日本人の活躍とは対照的に、陸軍が行った兵隊検査の結果、青年の体が傾向として過去に比較して、だんだん悪くなっていることを指している。