自分が住んでいる町内には、1940 年から 1980 年ぐらいまで唐木順三が住んでいたらしい。なぜか急行が停まる最寄りの小田急線駅の、東口前にある案内看板にはそう記載されている—— 1940 年に古田晃によって創業された筑摩書房に唐木は臼井吉見、中村光夫とともに編集顧問としてかかわっている (最初の出版物は『中野重治随筆抄』であった)。また、1980 年は入院先の北里大学附属病院から築地癌センターへ転院した唐木が亡くなった年である。
自分がこの町内に住むようになってまだ十年もたっていないが、休みの日などに飼主のリードをひっぱりながら町内のあちこちを道草して廻る飼犬の後について歩いた範囲では、唐木の旧邸跡らしきものが残っていたり、記念碑みたいなものが立っているのに気づいたことはない。だからといって——『無常』の著者に敬意を表するというわけでもないが——これ以上の詮索をする気など毛頭ない。
唐木は『朴の木』(「相模原の片隅から」)に当時のここら辺りの様子について下のように書いている。
付近一帯の檪が紅葉する時節は、ほんとにお伽話の国にいるような思いであった。野兎もいたし、いたちもいた。鶏がいたちにやられて、無残な死骸になっているのを発見した朝も度々であった。蛇の多いのには全く驚いた。草道を歩くと何十匹にも出会った。青大将が鶏舎に入りこんで、とぐろをまいて卵をくわえていた。まむしにやられる人も毎年あった。そういうものが、このごろ急にいなくなった。コジュケイもいまはもう姿をみせない。数年前まで必ず夫婦でやってきた三光鳥の美しい姿ももうみられなくなった。
ここは相模原——さがみっぱらとよんでくだされば一層感じがでる——の片隅で、八里橋無しと、よばれたところである。富士山の火山灰土で、かるい土質のためだろう、雨はすいとり紙のようにすいとられてしまって、川というものがない。川のないのは索漠たるものだが、そのためにまたいいこともないではない。雨樋をうけた水槽に、春の小鳥が群れあつまる。から類、ほおじろが多かった。それが目白おしにならんで、水をのみ、空を仰いで小さのどをごくごくいわせている風景など可愛いいものであった。その小鳥たちもこのごろめっきりすくなくなった。例の空気銃というちゃちなものが流行してきたことにもよるだろう。このごろ多くなったのは、ヒヨドリである。姿はよいが鳴声は感心しない。ジョウビタキの姿も時にみえる。以前は無茶苦茶に鳥が多かった。
現在では唐木が書いたような面影はまったくといってよいほど残っていない。この十年に満たない間でも樹齢の比較的長そうな木が次々と何本も伐り倒されて新たな宅地やその他に造成されており、野鳥たちにとってはどんどん住みにくくなっているだろう。交通の便が比較的よく、平地ということもあって付近の人口はいまだに増え続けていると聞くので、それもやむをえないのだろう。
けれども、座間市がある西のほうへ向かって少し歩き、日産自動車の事業所敷地を抜けてアーチが朱色に塗られた芹沢陸橋の方まで行けば、向かって左側には芹沢公園があるし、右側一帯は畑の畝がひろがる栗原と呼ばれる地域で散策するにはなかなかよい風情のところである。歩いていると、ときには乗馬クラブがあってそこの厩舎に馬が見えたり、樹齢 300 年を超えているといわれる大きな藪椿が民家の庭にあったり、井戸があちこちに散見されたりして飽きない。あちこちに坂が多く、お年寄りの方が住むにはちょいと大変な土地かも知れないが、散歩する者にとって景観はよい。座間市は起伏の多い地形で、市内のあちこちに地下水が湧きでており、坂も至るところにある。その坂には名前がついているものもたくさんあり、そうでないものはもっとある。どちらにしても自分はその坂ひとつひとつの様々な表情に惹かれてしまう。
昨日も芹沢公園から目久尻川を越えて小田急線の座間駅へと至る、坂を十分すぎるほど満喫できる散歩をした後、駅のホームで「とん漬」の看板に目がいってそれを眺めながら各停電車を待っていると、不図、森歐外の『雁』を想い出した。それで、家に帰ってから久しぶりに『雁』を「坂の小説」として読み直した。
小説でも、たとえば『坂の上の雲』みたいに坂に象徴的イメージを負わせただけの細部が感じられないものには、なんら興味を感じない。あの小説は、坂に留まらず、具体的な細部で自分の記憶に残るものがほとんどなく、物語の記憶が存在しているだけである。その点、「散歩文学」といってよい『雁』は、坂の細部が感じられる作品で好きである。とりあげられている坂はもちろん東大鉄門からすぐの東京都台東区池之端と文京区湯島の間の「無縁坂」であるが、坂の一方の側 (南側にあたり、湯島から池之端へ坂を下るときには右側に見える) は岩崎邸だが、反対側 (北側) は現在の景観とは異なり、歐外が「けちな家が軒を並べてゐて」と書いているように当時は下町の雰囲気をたたえた家並であったのだろう。坂道を挟んだその左右の異なる世界の対照に歐外が着目しているらしいところはすぐにわかるが、それだけだと、『坂の上の雲』よりは遥かにマシというものの、やはり坂に象徴的意味を負わせただけに過ぎないともいえる。
この中篇小説で、坂が具体的に機能するのは、歐外が岡田とお玉の「坂での出会い」を綿密に描写しているからに他ならない。誰もが覚えているだろうその場面をあえて引用する。
この話の出來事のあつた年の九月頃、岡田は鄕里から歸つて間もなく、夕食後に例の散步に出て、加州の御殿の古い建物に、假に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶら〴 〵 無緣坂を降り掛かると、偶然一人の湯歸りの女が彼爲立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候が大ぶ秋らしくなつて、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絕えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戶の前まで歸つて、戶を明けようとしてゐた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停めて、振り返つて岡田と顏を見合せたのである。
紺縮の單物に、黑襦子と茶獻上との腹合せの帶を締めて、纖い左の手に手拭やら石鹼箱やら糠袋やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたのを懈だるげに持つて、右の手を格子に掛けたまま振り返つた女の姿が、岡田には別に深い印象をも與へなかった。倂し結ひ立ての銀杏返の鬢が蝉の羽のやうに薄いのと、鼻の高い、細長い、稍寂しい顏が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁たいやうな感じをさせるのとが目に留まつた。岡田は只それだけの刹那の知覺を閱歷したと云ふに過ぎなかつたので、無緣坂を降りてしまふ頃には、もう女の事は綺麗に忘れてゐた。
この場面の歐外の綿密な出逢いの演出は素晴らしい。まず当然であるが、刹那の出逢いである以上、二人の視線が斜めに交わるタイミングは岡田が歩く道が坂にかかって爪先下がりになった瞬間でなくてはならない。もちろん坂には二人以外の人物を存在させてはならない。岡田が俯瞰している坂の左側にある「例の寂しい家」の格子戸を右手で開けようとしていたお玉が、岡田の下駄の音を聞きつけて、その動作を中断しやや上目遣いに岡田の方へ振り返る動作はこれしかないと思わせる必然性がある。話者が「繊い左の手に手拭やら石鹸箱やら糠袋やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたのを懈だるげに持つて」と竹の籠に入っている中身の品までをいちいち執拗なまでに記述するのは、俯瞰の視点によってある程度正当化される気がする。そして、時間の経過を「無緣坂を降りてしまふ頃には」と坂に関連して書くのは当然だが、やはり手堅い。