ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。


お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髮の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸さきに突きあげてくる
ぎりぎりのところを歌へ
たゝかれることによって彈ねかへる歌を
恥辱の底から勇氣を汲みくる歌を
それらの歌々を
咽喉(のど)をふくらまして
嚴しい韻律に歌ひあげよ
それらの歌々を
行く行く人びとの胸郭にたゝきこめ

中野重治の有名な詩『歌』だが、この詩が傑作かそうでないかは置いておくとして、素直に中野重治自身が書いた『農村兒童の綴方について』(1937) にある一節がこの詩にもっとも関係していると思う。詩の前半の「歌ふな」の方の印象が圧倒的に強烈なので誤解を生むこともあったのだろう。下の散文はその点、意味するところは平明である。

特にこの種の子供の詩についていへることだが、彼らの苦しい生活を歌つた詩にはいはば歌がない。歌が非常に稀薄だ。くりかへしていふが、歌がないといふのは鳩や小鳥を歌へといふことではない。苦痛がそれへの反駁をとほして歌はれてほしいし、歌はれなければならぬといふことだ。綴方敎育の仕事についてゐる人びとが、自分たちの現實生活における敗北感を、これらの子供たちの感傷的な詩によつて慰められることは許されない。ましてさういふふうに子供たちの文學を育てることは絕對に許されぬと思ふ。

なお、この文章には『梨の花』に出てくる中学校の入学試験の算術で「株」についての生きた知識がなかったために、「二株半」と回答してしまった中野のエピソードも登場している (半株など実際にはありえないということ)。