近所の散歩ばかりだと飽きるので、土曜日は平塚から橋を歩いて相模川を渡って茅ヶ崎まで散歩した。白い富士山が綺麗であった。歩きながら聞いた演奏に Charlie Johnson 楽団の “The Boy in the Boat” があった。Jimmy Harrison (トロンボーン) とSidney De Paris (コルネット) のソロが素晴らしい。
Charlie Johnson The Boy In The Boat 1928
平塚駅から松林のある海岸に出る路すがらに高山樗牛の碑があった。樗牛は肺結核で 31 歳のとき平塚の病院で亡くなったんだと知った。Jimmy Harrison もほぼ同じ 30 歳のときに亡くなったと不図思い出した。樗牛が亡くなる 2 年前の 1900 年にJimmy Harrison は生まれている。そうすると、Jimmy Harrison と中野重治はほぼ同世代である。そんなどうでもよいことを考えた。わずか 30 年で時代は激変するんだと改めて驚きもした。
高山樗牛のような、
何の御用と問はれて稍躊躇(ためら)ひしが、
「今宵(こよひ)の御宴の終(はて)に春鶯囀を舞はれし女子(をなご)は、何れ中宮の御內(みうち)ならんと見受けしが、名は何と言はるゝや」
老女は男の容姿を暫し眺め居たりしが、微笑(ほゝゑ)みながら、
「扨も笑止の事も有るものかな、西八條を出づる時、色淸(いろきよ)げなる人の妾を捉へて同じ事を問はれしが、あれは橫笛(よこぶえ)とて近き頃御室(おむろ)の鄕(さと)より曹司(そうし)しに見えし者なれば、知る人なきも理(ことわり)にこそ、御身(おんみ)は名を聞いて何にし給ふ」
男はハツと顏赤らめて、
「勝(すぐ)れて舞の上手(じやうず)なれば」
答ふる言葉聞きも了らで、老女はホヽと意味ありげなる笑(ゑみ)を殘して門內に走り入りぬ。
「橫笛、橫笛」
件の武士は幾度か獨語(ひとりご)ちながら、徐(おもむろ)に元來し方に歸り行きぬ、霞の底に響く法性寺(ほふしやうじ)の鐘の聲初更(しやかう)を吿ぐる頃にやあらん、御溝の那方(あなた)に長く曳ける我影に駭(おどろ)きて、傾く月を見返る男、眉太(まゆふと)く鼻隆(はなたか)く、一見凜々(りゝ)しき勇士の相貌、月に笑めるか、花に咲(わら)ふか、あはれ瞼(まぶた)の邊(あたり)に一掬の微笑を帶びぬ。
といった文章を現在書こうとしても無理で、それはなにも今に始まった事ではなく、戦後文学では三島由紀夫さえ、素人読者は騙せても玄人は騙せなかった。つまり古典の記憶を自由に操るという意味では戦後文学は明らかに下手になっているわけで、映画でいえば無声映画を経験していない監督が巨匠になれない残酷さと関係しているかもしれない。だから、戦後文学の書き手は別の書き方を模索する必要があり、中野重治の奇妙とさえいえる文体の文章なんもそういった新たな目で見直す参考になる。柄谷と大江の対談は左翼作家という誰でも知っているイメージを翻訳して語っておらず、ほとんど中野こそがポストモダンなんだと言っているように聞こえるのが、自分には新鮮で面白かったということである。