ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

対談

中野重治を論じたものについては、柄谷行人と大江健三郎の対話 『大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人』が抜群に面白かった。ポストモダンなんて軽薄な言葉は中野重治にはまったく似合わないけど、中野重治によってポストモダンというのは、ようやくなにかの具体性をもつと感じる。

大江健三郎は中野重治を敬愛しており、なにか機会あるごとにその作品に触れている。2012 年 7 月の代々木公園における脱原発集会でも「私たちの父親の世代と私たちの世代でもっとも大きい作家であり、もっとも優れた人間が、中野重治さんです」と触れ、初期作品の『春さきの風』で赤子を殺された母親が獄中の夫に宛てた手紙の最後に書いた「わたしらは侮辱の中で生きています。」を引用していたのは記憶に新しい。

以下は柄谷と大江の発言でとくに印象的だったところ。

柄谷:

(前略)
僕が注目したのは次のようなことでした。彼のエッセイの中に「ちょっとの違い、それが困る」があります。もっと若いころに書いた論文(「素樸ということ」 一九二八年)にも、「大切なことならば誤解されてもかまわない」が「大切でないことは誤解されることを用心しなければならない」というようなことを書いています。これはだいたい同じようなことを言っていると思うのです。「大切なこと」というのは、いわば「大きな違い」です。大きな違いはだれでも気づく、けれども、小さい違いはそのままにされてしまう可能性がある。

しかし、 小さな差異にこだわることは、よく実証的な研究者で細かくやる人がいますが、そういうのとは違って、彼はその「ちょっとの違い」にこそ本質的に重要なモーメントがあるんだということを直感していたのではないかと思うんです。大きな違いというのは、いわば対立です。しかし、対立しあうものは実は互いに類似している。彼が「ちょっとの違い」というのは、対立の中で見えなくなっている差異だと思うんです。

しかし、このような姿勢はいつも彼のいうことを不透明にしていたと思います。それは思考があいまいだからではなくて、対立よりも差異においてものを見る、そのことで対立そのものを解体してしまうということをやっていたからです。『村の家』の中に、「しかし彼は、何か感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思った」という言葉がありますが、それも同じことを言っているように思います。彼が「押し流すことは決してしまい」とするのは、いわば「ちょっとの違い」です。たとえば、転向が「大きな違い」だとしたら、彼はそのことよりも「ちょっとの違い」に固執する。そのような主人公の姿は不透明だしよくわからない。そのために、さまざまな解釈を招いてきたわけですが、それは彼のすべての仕事に共通しているのではないか、そして、それは彼の一貫した姿勢ではないかと思うのです。

たとえば、現在中野重治の仕事をふりかえると、すぐに大きな間違いは見つかるんです。かつてのスターリンの評価などもそうですね。しかし、全部きっちり読んだわけじゃないですけれども、基本的に小さな違いは絶対にそのまま押し流さないという姿勢は貫かれている。たとえば、現在は、米ソ二元構造が崩壊して何もかも変わったように言われています。しかし、戦後にそのような対立構造が本当にあったのかどうかというと疑わしいし、したがってそれが崩壊して違った世界になったというのも疑わしい。そういう「大きな違い」ではなくて、むしろその中で隠されてきた「ちょっとの違い」が露出してきたのではないかと感じています。いま中野重治を読むと、それを強く感じるのです。

大江:

(柄谷の「神は細部に宿りたまう」と、いま取りあげている細部の問題はまったく異なるという発言の流れで)

中野さんはその種の、全体から眼をそむけた細部の人ではなかった。 その上で、細部に対する着眼点の非常にしっかりした人だった。まずこういうことはいえると思うのです。僕たちが同時代の作家や詩人を読んでいても、若いときに熱中したほど余り熱中できない。 その中でも、時々、これはおもしろいなと思う人というと、例えば武田泰淳さんの奥さんだったり、三十代の宇野浩二であったり、いわゆる文壇の主流からずれたようなところにいる人です。そうした作家、 作品に敏感な若い人たちが最近もいて、こういう 新しい読書家を非常によくとらえる文章がありますが、それは結局、おもしろい細部を発見している人の文章ということなのです。

作家自身、これはおもしろいということを発見してしっかり書くという態度を持っている観察家、思考家を、若い人たちがおもしろがっている。僕らもおもしろいと思う。武田百合子なら武田百合子はおもしろい。同じく、オーウェルのジャーナリズムの文章はおもしろい。でも日本では、これまで、それは一般にインテリの書き方ではなかった。ところが中野重治という人は、インテリだけれども、何がおもしろいかということを発見することから出発して文章を書きはじめる、おもしろい論理を発見して文章をつなぐ、詩を書く。評論も、長編小説もそういう書き方で構築する人でした。

こういう人の仕事は、全体としての整合性は危ういんだろうと思うんです。批判しようと思えば、特に党派的な立場から批判しようとおもえば易しいことで、中野さんは若いころから強敵に遭って、批判され続けてきた、ヴァルネラブルな人だったと思います。

いわゆる社会正義みたいなものを背後にした人が作家にも評論家にもいますけれども、そういう人は、批判するのがうまい。また、批判されないのがうまい。小林秀雄だって、弱点だらけでいながら、批判されないのがうまいといえる人だったと思います。ほかに芸術員会員でも有力者というような人たちは軒並みそうですが。

中野さんは批判に弱いところを持っている、ヴァルネラビリティのある文筆家です、よりによって、そういう人が政治的な行動をするのは非常につらかっただろうと思います。

もう一つ、小さなものから出発して展開していく人は地道に足を踏まえてやってゆく以上、自分は自分の狭い範囲で正しいんだという気持ちを持っている人が多い。例えば今いった武田百合子さんは、自分は正しいと思っていられたと思うな。ところが中野重治は、自分は正しくないかもしれないといつも思ってしまう人ですね。彼自身、自分は非常に軽率で、中途半端なことをやる人間だという思いがけないことを何度も何度も書いています。若い時、僕にはそれが不思議でしたが、いまになると本当にそう思っていられたんじゃないかという気がする。こういう人は、日本の指導的な文人には非常にまれだと思います。