現在の日本において普通にできるもっとも豊かな体験とはなにか?まさか、それがネット検索であろうはずもない。それをひとつだけ具体的に提示するならば、中野重治の『梨の花』を読むことだろう。もちろん、ここで「読む」とは、あの次に何が起きるかをさもしく期待しながら物語を消費する体験のことではない。それは、小説の主人公である良平とともに、20 世紀初頭の北陸の農村生活に触れて逡巡しながら、中野の緻密極まりない文章と共に在ってひたすら驚く貴重な体験である。たとえば、次の文章。素晴らしいではないか。
おんさんが綿打ちをする場所はきまっている。「おえ」と土蔵との境の、一郎の家では何といっているか知らぬが、良平の家でいえば廊下にあたるところでおんさんは綿打ちをする。そこの妻戸の下で、壁の隅に弓を仕かけて——それは大人が弓というので子供たちも弓といっているが、子供が竹でこさえて遊ぶ弓とはまるでちがっていた。それは木で出来ている。削った太い木で一種の弓型をつくって、その灣曲部のどこかが壁に固定してあるらしい。弓の胴は光沢のある濃い茶いろで、つるつるして銅いろに光っている。そしてそれに、大人が「くじら」といっている弦が張ってあり、くった綿を、おんさんが弦に投げかけて、それから手に持った才槌でその琥珀いろの「くじら」をはじく。すると「くじら」がぶるんぶるんいって弾んで、綿から種くずがはじけて飛ぶ。そしてまっ白い綿の繊維だけが「くじら」にまきついてくる。それを、三尺ばかしの竹の箸でつまんで取って片わきへふわりと積んで行く。才槌で弦を打つと、弦は「うん、うん、うん……」という音をたてる。それといっしょにおんさんが、心もちからだを揺すりながら「わん、わん、わん……」と口の中でいう。それは、「わん、わん、わん……」といっているのか、なにか鼻うたをうたっているのか、それともただ唸っているのか良平たちにはわからなかったが、「わん、わん、わん……」と口でいうほうが、だまって才槌を打つのよりは、おんさんにからだに楽ならしいということだけはどうやらわかるようだった。
「こら、子供らあ、綿アかぶって仕方ないがい。あっち、行けま……」
それはそのとおりだった。おんさんの肩も、着物も、頬かぶりした手ぬぐいの上も、妻戸の桟のところも、部屋の反対の側までも白い綿ぼこりがつもっていた。そのごみのようなものを、おんさんが竹の箸でちょいちょいと摘むようにして寄せる。すると、埃のようにみえていたのが立派な白い綿になる。そのひとつまみを、ふうわりとおんさんが綿の山に加える。それは、みている良平たちに手妻か魔術のように思えた。お神明の祭りに綿菓子屋がくる。台の下で足で板を踏むと、上で真鍮の円盤がまわって綿菓子がぷうっと吹きだしてくる。それを箸でちょいちょいと摘んで紙に入れてくれる。あれも不思議だったがもっと綿打ちのほうが不思議だった。綿菓子も機械がまわるとき音がしたが綿打ちの音はちがう。「くじら」の「うん、うん、うん……」という音、おんさんの「わん、わん、わん……」という声、それが入りまじって部屋全体が「うん、うん、うん……」といっているようにひびく。嘘のような、夢をみているようなぶうんというひびき……