ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

変化に盲目

前回の記事の意図は、バイアス自体は善でも悪でもなく、バイアスすらも適切にTPO で論理に組み込んで有効活用できるのが人間の柔軟性であり、創造性であるということである。よく、バイアスをまるで邪悪な罠であるかのように、その暗黒面しか言わない人がいるが、その教条的な硬直性にはしばしば辟易する。

さて、YouTube 見ていたら、こんなのがあった。

これって、自分が中心だと思って見ているところをマスクして、その周辺を見る訓練をすれば、正解率は上がるはずである。要するに、あたり前のところや、誰もが目にするところや、紋切り型イメージと一致しているところは敢えて見ないという心がけでモノを見る訓練を続ければ良い。「どうせ、ここを隠蔽したいんだろう」と、相手の意図を読むことも重要である。

根本原因は相対的なワーキング・メモリーの容量が小さいことだと思う。視覚情報というのは情報量がとても多く、その上、人間の普段のリアルな生活では眼の前のものがいきなりパッパと切り替わっていくことはあまりない。そうすると、必要なときはまた目の前の光景を見ればよい。眼球を動かすのも精妙な仕組みを発展させたので、それほどコストはかからない。この画像の情報量の多さと、見たいときにはいつでも見れる環境と運動能力が、人間のワーキング・メモリーを進化において増やさなかった理由だという気がする。そう考えると、ショットが次々に切り替わっていく、映画のような画面の場合、それらをくまなく見て、すべて記憶しているのは不可能である。ただ蓮實重彥だけは例外かもしれない。大学のゼミで、ヒッチコックの『鳥』をヴィデオでみてショットの切替りでティッピ・ヘドレンの髪型が微妙に変わっていることまで指摘していた。映画で女性が髪に手をやるのは、ショットのつなぎで髪型が変化するのを誤魔化すためだというのも、そのとき初めて知った。

「創発」というのは中央集権的なコントロールの仕組ではなく、特定の (すべてではない) 細部が、全体の大きな変化にどこかでつながっているはずだという信仰のことだから、「創発」信者には、こういう見方の訓練は必要かもしれない。