ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

プルーストとラスキン

真屋和子という方による『プルーストの眼:ラスキンとホイットラーの間で』(1999) という論文をインターネットで読んで、これが境界線を逸脱する話でなんかとても清々しい気分になった。

ジョン ・ラスキンがジェームズ・ホイッスラーの絵画『黒と金色のノクターン』を酷評して、ホイッスラーがラスキンを名誉毀損で訴えた事件について、プルーストはマリー・ノードリンガー に宛てた手紙に以下のように書いているそうである。マンチェスター出身のノードリンガーは、井上究一郎の『ガリマールの家』(1980) にも登場するが、プルーストによるラスキン『胡麻とゆり』の仏訳協力者で、プルーストに日本製水中花 (プチット・マドレーヌの味覚から記憶が蘇るところの比喩で使われる) を送った人である。

ラスキンに対する訴訟の際にホイッスラーはいっています。「この絵を私が数時間で描いたとあなたはおっしゃいます。しかし私は全生涯の経験によってそれを描いたのです。」ところで、ちょうどその頃ラスキンはロセッティ(注: ラファエル前派の画家) にこう書き送っています。「私が好きなのは、あなたが丹念に筆を加えたものより、即座にさっと描いたもの、あなたの素描画なのです。入念に手を加える作品の場合、あなたがそれを製作するのにたとえば六ヵ月かけるとします。ところが一気に描きあげるものは、多年にわたる夢、愛情、そして経験の帰結なのです。」ここにおいて二つの星は、おそらく互いに敵意を含んではいても同一の光によって同じ地点を照らしているのです。

前にも 『オクシモロン的に』という記事で、プルーストは、「長さ」が「短さ」の反対語でしかない世界を疑っており、それを当たり前だと思わせるイメージの支配に苛立っていることについて書いたが、ここでもプルーストは、ラスキンとホイッスラーが対立しているイメージを疑っている。

そんなプルーストがたとえば、ラスキンの『ヴェネツィアの石』の第二部第四章にある聖マルコ寺院のこんな記述に惹かれないはずはないだろうと思う。

聖マルコの獅子が、青地一面にちりぱめられた星を背景に、高く掲げられ、そして遂には、まるで歓喜のあふれるごとく、アーチ群の波がしらは砕けて大理石の泡となり、自らをはるか高く蒼穹の中に放り上げ、閃光や、彫刻によって表わされた水煙のうずとなるが、それはあたかも、リドの岸辺に当たって砕ける波が、砕け散る前に凍りついて、そこに海のニンフたちが珊瑚やアメシストを嵌め込んだかのようである。

…… and the St. Mark's lion, lifted on a blue field covered with stars, until at last, as if in ecstasy, the crests of the arches break into a marble foam, and toss themselves far into the blue sky in flashes and wreaths of sculptured spray, as if the breakers on the Lido shore had been frost-bound before they fell, and the sea-nymphs had inlaid them with coral and amethyst.

実際、真屋さんは、『失われた時を求めて』冒頭近く(スワン家のほうへ 第一部) のコンブレーの教会の記述と比較してくれており、大変興味深かった。たしかに流れの向きは下から上、上から下と違うが「流れ」と「凝固」を宝飾で繋いでいるところなんかはそっくりである。

一瞬ののち、ステンドグラスは、孔雀の尾のように変化するかがやきを帯び、ついで、ふるえ、波うちながら、フランボワイヤン様式の雨、幻想の雨となって、薄暗い岩山のような円天井の上から、湿った内壁に沿ってしたたり落ちた……。また次の瞬間には、菱形をした数々の小さなステンドグラスが、なにか大きな胸当の上にでも並べて置かれたサファイアのような、深い透明度と、絶対にこわれそうにないほどの硬度とをもってしまった。

これは、ラスキンの文章 (『近代絵画論』)。山の描写に対義的な海の比喩を使っている。

どの葉も太陽の光を反射し、送ろうとひるがえるとき、初めにたいまつ、次いでエメラルドになる。谷のはるか奥まったところに緑の葉むらが、水晶の海の巨大な波の空洞のようにアーチ型をなしてつづく、その波のわき腹に沿ってイワツツジの花が勢いよくはしり、泡立ち、オレンジの小枝の銀片は水煙のように空中に打ち上げられ、灰色の岩の壁にあたって無数に散らばる星となって砕け、徴風が銀の波をもち上げたり落としたりするにつれて、薄れたり明るく輝いたりしている。

これはプルーストの文章 (「花咲く乙女たちのかげに 第二部」祖母と行ったバルベックの海岸のところ)。海の描写に対義的な山の比喩を使っている。

山なみのうねるまばゆいばかりのこの広大な曲馬場、あちこち磨かれて透明に見えるエメラルドの波の雪白のいただきに、視線を投げるのだが、その波は平静さのなかに狂暴をはらみ、ライオンの威厳をもったしかめっ面で空高く打ち上げられてはまたなだれして、崩れ落ちるその斜面には太陽がゆらめくほほえみをつけ加えていた。

※ 全然関係ないけど 『ガリマールの家』を随分久しぶりに読んだら、セロニアス・モンクの『リフレクションズ』が出てきた。アルバムは 1954 年だけど録音は 1952 年のものである。