ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

タイムマシン・モデル

先進的なテクノロジーが社会的なインフラを形成することで一国が成長していくという 19 世紀型モデルに現在の日本を当てはめることは困難となってきている。ここで 19 世紀型モデルと言っているのは、テクノロジーが、蒸気機関であれ、ICT であれ、遺伝子であれ、構造的には同一の単調に繰り返されてきた、あの科学技術と産業についてのお馴染みの物語のことを指している。

日本でスマートフォンの普及が他国に比べゆっくりだったのは、「ガラケー」と呼ばれるフィーチャー・フォンの機能で充分だと考える層が存在したためである。既存の規制や既存業界のために Uber は日本ではなかなか普及しない。

「若者が保守化している」と巧妙に若者にその責任をすり替えることで自らの保守性を温存する中高年層 (自分もその一人) が社会の大半を占めるようになったことも関係しているのだろう。60 年代の西海岸のヒッピー文化の影響を受けたリベラルな若者たちが 70 年代に生み出した現在の ICT 技術の底流にいまだに流れている革新性の残滓を社会に顕在化しようという野望を多くの中高年は有していない。

たとえば団塊の世代よりはるか前、第二次世界大戦の勃発がまだ不安に過ぎなかった年に生まれた老人が池袋で起こした醜聞と被害に遭われた方の痛ましさの両方を ICT を活用したメディアが途方もない希薄さで肥大化させ視線から隠蔽し、老人を攻撃する人間たちを事件そのものに劣らぬ醜さで汚染した挙句、時流に便乗して金儲けをしようというのか、二項対立と閉鎖的共同体の成員であることを煽りたてる表題とポスト・トゥルース的惹句をカバーにもつ本を出版する輩までが現れ、しかもそれがベストセラーになってしまうという事態を嫌でも目のあたりにしてしまうと、つい日本における ICT 技術の活用方法とは、新たな境界線の形成、潜在的でしかなかった境界線の固定強化、予定調和にもとづいた物語 (イメージ) の流通による意義深い細部の運動の無効化に加担する陰惨な創造性の抑圧のことであると思いたくなってしまう。イノベーションとは既成の境界を逸脱させることで、社会に変化をもたらすものであるとすると、それは「負のイノベーション」を提供するといってよいかもしれない。少なくとも、現在の日本市場はイノベーションを揺籃してくれる環境とは考えにくい。

ICT 技術が国家の経済成長に真に有意に寄与するために、生まれたばかりの技術を揺籃し一人前に育てていく場所の多くは、かつての日本もそうであった途上国であろう。

たとえば、現在のバングラデシュが、どこかしら 60 年代初頭の高度成長期にこれから入ろうとする 55 年体制の日本に類似しているとみなしたタイムマシン・モデルにもとづいて考察することは、満更無駄ではないと思うし、60 年代に日本で流行ったレトルト・カレーはバングラデシュでも流行るのかと想像することは暇つぶしぐらいにはなる。

その一方で、技術進化や普及が早い ICT 技術はタイムマシン・モデルにしばしばのっとらない。それは携帯電話が、新興国のほぼすべてで、より過大なインフラが必要で構築に時間を要する固定電話の通信インフラ普及を実現させることなく絶滅させ、経済成長期を迎える前から普及したことを考えれば明らかであろう。世帯に普及していない銀行預金やクレジットカードだってフィンテックに飛びこされるだろうことは容易に想像できる。

本来、普及がきわめて早いデジタル情報技術は、普及の抵抗となる既存の代替手段が対象市場にほとんどなく、日本のように病的で末期症状とさえ思わせる毛細血管のように張り巡らされた規制や暗黙のルールもなく、しばしばリスクを怖れず野心家でもある青年層が社会の大半を構成していれば、信じられないほどの速度で普及するはずである (もちろんその副作用もあらわれる)。技術がまだ成熟しておらず、使用環境条件になんらかの重要な不備があっても社会の方が逆に運用で対応してくれる。たとえば、携帯電話は電気がインフラとしてきていない村ですら使われている例がある。初期には高額な導入コストも、定石であるシェアリング (実現方法はなんであれ小口分割払い) によって対応される。普及速度があまりにも速く早期に寡占市場化するためにフォロワーの市場参入は比較的困難であり、したがってイノベーターになることはきわめて大きな差別化要因となるかもしれない。

新興国が面白いのは、まるでタイムマシンで過去に行ったのかと思わせるような遅々として進まない部分と、火がついたように普及してしまう部分の両極端と思える二つの側面が存在し、その両方が生み出す多様なダイナミズムを想像することが必要なところである。

※ 前の記事で『時をかける少女』について書いたので、その連想がつまらない方向に進みどうでもよい記事となってしまった (← いつものことか)。