ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

比喩

『映像の修辞学』でロラン・バルトが本当にそのような純粋状態の「意味」が単独にありえるのだろうかと留保をおきながらも仮説として採りあげているように、「比喩」とか「含意」とかといった「意味作用」を考える道筋は 、「字義通りの意味」という概念を出発点として、それとは異なる「言外の意味」との間の戯れを律儀に追いかけてみることかもしれない。

ごくつまらない例だが、電車の中で

私の足を踏んでいますよ。

という場合、その「字義的意味」は、相手が自分の足を踏んでいるという紛れもない事実を語っているが、それ以外に相手に「その足をどけてくれ」という意図を伝えようともしているだろう (含意)。

つぎに、

あの男は狼です。

の場合は、「字義的意味」を伝えようとしている文とは受けとりにくい。その意味は、男と狼がともに「残忍である」という同じ「類 (カテゴリー)」にあると見なされていることから生じている。

この矢があの人の胸に突き刺さればいいのに。

という文がコンテクストなしに与えられた場合に、この文を「字義通り」読んで、「相手を殺害したい」という意味に受けとる人もいるらしい。これは、たんなる憶測にすぎないのだが、国語の新学習指導要領とやらで「実用文」を中心に読解を学ぶひとが今後増えてくると、ますます「殺害したい」派が主流になって迂闊に愛も語れない時代がくるのかもしれない。

これはずっと前にとりあげたが、

民主主義はボージョレ・ヌーボーのように、ジャイアント・パンダのように、駅伝のように好きになれない。

という蓮實重彥の文章があった。この文は「字義的意味」というより、言外の意味を伝えようとしていることはよいと思うが、「民主主義」がそれぞれ「ボージョレ・ヌーボー」「ジャイアント・パンダ」「駅伝」と、どういう類縁関係にあるかどうかについては容易にわからず、それぞれが「豊穣さに欠ける」「継承していくのに手がかかる」「役にたたない」という類に属していることを逆に気がつかせるような役割をしている。

そうすると、こと、なんらかのメッセージを伝える言葉にかぎれば、

  1. 「字義的意味」を中心に伝えるもの
  2. 「字義的意味」とあわせて別な意味も伝えるもの
  3. 「字義的意味」ではなく別の意味を伝える、あるいは伝えようとするもの

の三つにわければよく、「比喩」というのは、主として 上記 3 にかかわるらしい。これが写真のメッセージだと、バルトの「広告写真」を例にとれば、上記 2 の「含意」が重要である。バルトがいうように、写真は実像をそのまま写すものなので「字義的意味」を伝えないということは難しい。

比喩の種別化については、人によってさまざまな主張があるが「換喩 (metonymy)」「提喩 (synecdoche)」「隠喩 (metaphor)」の三つを基本型とするのが最近の傾向であるようだ。もちろん、比喩には人間の創造性が関与しており、それが創造性にかかわるのであれば、分類が相互排他的 (MECE) にできると想像するほうがおかしく、各分類には定義の重なりが生じうるはずである。

換喩

「換喩」は、ある対象を示すために、空間的に、または時間的に隣接した物理的なモノやコトを代理にして対象を示すやり方である。例として、

あのポニーテイル、可愛い。

さっきから、ハム・サンドそわそわしてるよ。
※ ハム・サンドイッチを注文した客

永田町 / ホワイト・ハウス

青い眼の友達

ショスタコーヴィッチを聴いた。

漱石を読む。

トヨタを買った。

たこ焼き
※ 焼いているのはタコだけではない

テレビみた?
※ テレビ受像器と映像

お風呂わいた?
※子供のころ間違いといわれ、比喩表現だと反論できなかった。

炊飯器を炊く。
※ 昨日、電車で若い子がこういっていた。

一升瓶を飲み干す。

なお、物理的な「部分-全体」の包含関係を次に説明する「提喩」とみなす流派もあるようだが、ここでは「換喩」に含めたほうが後の「隠喩」の説明がスッキリする。

提喩

つぎに「提喩」であるが、まず、ある「類」 (ある類似した性質をもったもの全体の集合) と 「種」(類に属するメンバー) を考える。例としては、「類」として 花、「種」として {桜、チューリップ、菖蒲、……} がそうである。「提喩」は、「類」を「種」で代表させる下降運動と、「種」を「類」で代表させる上昇運動の両方のことである。下降運動の場合、「類」の中の典型的と考えられる「種」が採用されることが多い。

下降運動 (上位カテゴリーから下位カテゴリーへ):

人はパンのみにて生きるのみにあらず。

小町

ググる。

上昇運動 (下位カテゴリーから上位カテゴリーへ):

髪に白いものが混じっている。

お花見

おめでた

熱いものが頬をつたう。

隠喩

「隠喩」は、名詞に比喩が適用される場合と、形容詞や動詞に比喩が適用される場合にわけて考察すると見通しが少しよくなる気がする。なお、喩えるときに「まるで」「ようだ」「みたいだ」などを付加して、比喩であることを明示するものを「直喩」または「明喩」(simile) とかいうが、それだけのことのようでもあり、とりたてて「隠喩」と区別する必要性をいまのところ思いつかないので一緒に考える。

まず、名詞に適用される場合だが、パスカルの『パンセ』から

人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。 しかしそれは考える葦である。

という、なぜ名言なのかいまだによく分からない文章を例にとってみる。すると「人間は動物である」であれば、字義的に解釈すればよいが、「人間は葦である」は字義的解釈が成りたたないので比喩である。その比喩が成立するためには、「自然のうちで弱いもの」という類 (カテゴリー) を考え、その類に属するメンバーであると話者がみなしている「人間」を「提喩」の上昇運動で「弱いもの」にいったん持ちあげ、それから、その「弱いもの」の典型として「葦」を取りだすという「提喩」の下降運動を結合させれば、隠喩が形式的になりたっている。さきほど、例にだした

民主主義はボージョレ・ヌーボーのように、ジャイアント・パンダのように、駅伝のように好きになれない。

もまったく同じように、「豊穣さにかけるもの」「継承するのに手がかかるもの」「役にたたないもの」の「類」を介した上昇運動、下降運動の組合わせである。ただこの例が悪い冗談になるのは、それぞれの類の典型的なものとして、「ボージョレ・ヌーボー」「ジャイアント・パンダ」「駅伝」を取りだしているところと、「民主主義」と前記三つの喩辞を比較してみても、すぐには類似点を思いつけないことである。

あの男は狼だ。

この場合、「あの男」がどんな人間かが聞き手にはよくわからなくても、「狼」についての「凶暴で残忍である」という紋切り型イメージが一般に流布しているので、退屈ではあるものの比喩が成立する。この場合、「狼」が「男」のかわりに使われるのは、「残忍さ」という意味ではより特徴的な「種」であるからだろう。

恋愛は炎だ。

恋愛と炎を比較して、「熱い」とか、「燃え上がる」という共通特徴がひきだされ、より特徴的な「炎」が「恋愛」のかわりに使われる。

なお、隠喩というのは、字義通りの意味を伝えていないのだから、母親が子供に

あなたの部屋はゴミ箱ね。

といったときに、子供が

ぼくの部屋はゴミ箱じゃない。

と母親へ言い返すのは、論理的にはつねに真である。

最後に、名詞でない場合の隠喩を考えると、これは難しいし豊かであることもわかった。

名詞でない隠喩の例として、以下に蓮實重彥の映画作品のコメントの抜粋をあげる。

太い樹木の幹がふたりの愛をひそかに祝福している。

これは、「ひそかに祝福している」の部分が隠喩であることはすぐにわかると思う。

もっと簡単な例で考えてみると、

柔らかい音

は、「柔らかい」の部分が隠喩である。視覚や聴覚や臭覚は、より皮膚感覚的な (それはある意味、典型的である) 触覚や味覚で喩えられることがしばしばある。「柔らかい」というのは、触覚としては強度が弱く、心地よいものを連想しやすく、比喩として採用されるのであろう。そのほかにも「湿った音」「乾いた音」「重い音」「軽い音」「鼻をツンと突く臭い」のような例がある。味覚についても、「甘い音」「渋い音」のように、しばしば比喩に用いられる。

述語の比喩は、適切な表現が難しかったり、たとえ表現できても言葉を数多く積み重ねなければいけない「言葉にしにくい状態 / 動作 (運動)」をひとつの「類」としてイメージし、その類から典型的な物質 (それは古代ギリシャでは「空気」「火」「土」「水」であった) の「状態/動作 (運動)」をみつけることによって成りたっているのかもしれない。以下のような例を眺めると、感情は流体の動作 (運動) を記述する述語で喩えられることが多いことがわかる。それらの比喩は、観念的なものをより知覚的なものへと、なんらかの類似を通じて置き換え、言葉として顕在化させることで成立している。

喜びに湧く。

悲しみに沈む。

怒りが爆発する。

闘志をかきたてる。

胸を焦がす。

嬉しさで胸が一杯になる。

好意に溢れる。

愛情を注ぐ。

怒りが煮えたぎる。

悲しみで張り裂けそうだ。

憎しみが渦巻く。

寂しさが身にしみる。

希望に充ちる。

夢が膨らむ。

情熱を傾ける。

愛に溺れる。