『リオ・グランデの砦』(1950) のクリップを再掲するが、もしこのクリップだけしか見ていないならば、モーリン・オハラがつけている「白いエプロン」が、白いエプロンである以上のものを参照していると考え、物語において明確に意味付けることは困難である。
その「白いエプロン」の意味付けは、この場面からは距てられている作品の冒頭に現れる「白いエプロン」や、フォードの他の作品『わが谷は緑なりき』(1941)、『静かなる男』(1952) 等に現れる「白いエプロン」の場面と連携させることで、「白いエプロン」は白いエプロン以上のなにかを指した視覚表現ではないかと、ようやく考え始められるようなものである (その意味は「白いエプロン」のような主題が登場する場面を集合させてさえ希薄なものに留まることがしばしばである)。
このように、単独の事象ではなく、網の目のように張り巡された関係ネットワークが構成されて初めて、メッセージらしきものを伝えうる「記号」のことを「主題」と呼ぶのだと思う。なお、この例では距たりはジョン・フォード作品という範囲に限定されているが、どんな空間を想定するかはもちろん任意性がある。また、「主題」同士を連携させるためには、何らかの「類似」や「相似」は当然必要であるが、それらの関係を特定のものに限定しなければならないという制約はもちろんない。
ロラン・バルトは「明るい部屋」で、一枚の写真のフレームの中の、(「映像の修辞学」の記事で説明したような) 文化的コード化を容易には許さないある種の細部を「プンクトゥム」と呼んでいる。一枚の写真の場合、その「プンクトゥム」は外部にどうしても参照先を見つけられず、自己参照として、つまり「それはかつてそこにあった」という愚鈍とも思える意味しか、見る人に突きつけないことが生じうる。それをバルトは亡き母の少女時代の写真を例として美しく語っている。
「プンクトゥム」というのは「突き刺すもの」ぐらいの意味だと思うが、たかだか「好き嫌い」で語られる文化的コードとは違い、理由もなく執着せずにはいられない愛してやまない「細部」のことであろう。複数のフレームをもつ映画の場合は、他フレームへの参照を許すので、その細部が愚鈍の表情をしていても、何らかの意味付けを手探りで探索せずにはいられないところから、映画の主題論は始まるのだと思う。