ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

リオ・グランデの砦

このジョン・フォードの美しい『リオ・グランデの砦』(Rio Grande, 1950) は、すでに簡単に取り上げているが、また性懲りもなく書いてしまうことにする。この作品は何十回見ても、見るたびに感動してしまう。

メキシコと合衆国の国境となっているリオ・グランデ川の近くにある辺境の駐屯地の騎兵隊中佐であるカービー・ヨーク (ジョン・ウェイン) は、かつて南部出身のキャサリン (モーリン・オハラ) と結婚し子供ももうけていたが、南北戦争の折、北軍将校であったヨークは、軍の作戦に従い妻キャサリンの実家が所有する先祖代々の農園や屋敷に火を放ち焼き払ってしまう。キャサリンはそのことで夫であるヨークが許せず、二人は 15 年ほど前に離婚してしまっていた。二人の子供であるジェフ (クロード・ジャーマン・ジュニア) はキャサリンのもとで成長して士官学校に入学するが数学の成績が原因で学校を落第し、母親には内緒で騎兵隊を志願して、たまたまヨーク中佐のいる駐屯地に二等兵 (欠員の補充兵) として送られる。ジェフと一緒に配属された新兵の中には、トラヴィス・タイリー (ベン・ジョンソン) とダニエル・サンデー・ブーン (ハリー・ケリー・ジュニア) も一緒にいた。新兵たちの教育係は、クインキャノン軍曹 (ヴィクター・マクラグレン) である。その砦にキャサリンもまた息子を連れ戻そうと、南部からやってくる......。

この作品は、コンピュータでカラー着色した版もあるらしい。しかし、モノクロームの映画としてずっと見てきたせいもあるが、後に述べるように白黒であることに積極的な価値が見出せる作品だと思う。着色にはまったく感心しない。

フォードはこの作品で、砦の兵舎になっているテントの「布」というごく単純な素材からすら、思いもかけぬ映画的演出を多様に引き出している。その演出は、まるで魔法である。

成長した息子、ジャーマン・ジュニアと初めて再会した上官であるウェインが、ジュニアがテントから退出したのを見届けると、息子の成長ぶりを改めて確認するため、直立不動で挨拶していた息子の頭の先が触れていたとおぼしきテントの布の位置にペンで目印の線をひいて自分の背の高さと較べる場面がある。テントの布が囲む狭い空間は、外の広大な解放空間とは対照的であり、立つと頭がつかえてしまう「狭い」場所なのである。その「狭い」空間で親と子の再会の喜びが素直に表現されない、儀式的なぎこちなさとして演じられている。

昼間はテントの布から外光が透けて入り、内部は魅力的な柔らかい光で満たされている。この白が美しいモノクローム作品で、モーリン・オハラのクロース・アップはただ一度存在しているが、それはこのテントの内で、オハラがオルゴールの蓋を開けると “I'll Take You Home Again, Kathleen” のメロディが流れる瞬間である。そのクロース・アップは軟調のレンブラント照明になっている。このオハラのアップが含まれる場面では、彼女は純白のドレスを着ており、そこにも柔らかな影が落ちていて美しい。

テントを外から見ると、昼間は陽の光を布が反射して強いコントラストを作っている。それは夜のシーンですら白々として見える。この作品では、テントの布だけでなく、空の雲、服やエプロンの白さ、川の水の飛沫など「白さ」が目立つが、「アメリカの夜」だと思われる夜の場面でもそれは同じである。そこでは、喧嘩で傷ついたジャーマン・ジュニアが左眼の上に貼っている大きな絆創膏までが白く光っているのだ。ジョン・ウェインとモーリン・オハラが並んで立って 、サンズ・オブ・パイオニアーズが歌う “I'll Take You Home Again, Kathleen” を二人聞いている、あの忘れ難い夜の場面では、オハラの服を純白に輝かせている。

リオ・グランデ川を超えてすぐに国外に逃走してしまうインディアン討伐の消耗する遠征から帰ってきたジョン・ウェインが、テントの内に入りランプを灯すためにマッチを擦る場所もまたテントの布である。ランプに灯りをつけたときに、その布は光をあたりに拡散させる。そこにモーリン・オハラの姿が暗闇から浮かびあがり、二人はその暗闇と柔かな光の狭間で抱擁を交わしキスをする。

この映画は、フォード作品の中でも馬の運動ぶりが、とりわけ多様である。最初にあるベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニアが「古代ローマ式」の騎乗をスタントなしでしているところの爽快な開放感はどうだろうか。馬の様々な運動を見せてくれるだけでなく、ベン・ジョンソンの騎乗の素晴らしさをもっとも見せてくれるのもこの作品である。そして、馬たちが川を渡るときにあげる水しぶきの「白さ」もまたこのモノクロ映画の画面を素晴らしいものにしてくれている。

そして、作品の最後の感動的な、傷ついた父と息子を含む兵士達の帰還の場面。そこでは、蓮實重彥が最初に指摘したフォード作品の「主題」としての純白のエプロンが、オハラの腰に翻っている。そのエプロンの白さを際立たせるために、他は黒っぽく抑えている繊細な配慮こそ画面で確認すべきことである。

この作品の考古学的ともいえる傑出した画面の美しさは明らかで、日本語 Wikipedia は、またしてもその美しさを「一次的情報=作品」で確認することを怠り、どうでも良い二次的情報だけで作品を解説しようとしていることで味噌をつけている。