ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

静かなる男

アーゴシー・ピクチャーズで製作され、リパプリックから配給されたジョン・フォード監督の『静かなる男』(The Quiet Man, 1952) は映画化の構想が実現されるまで、十数年の時を要した作品である。

前の記事にも書いたけれど、蓮實さんの批評が好きなところは、映画の主題同士を思い切りのよいロングパスを通すように連携させていく点で、その的確さと鮮やかさは批評というより創造だと感じる。それからもうひとつ好きな点として、自分の感動した場面に対しては、作品全体の均衡などお構いなく、あられもない程、耽溺してしまう点である。微に入り細に入り語るのは耽溺した人の特徴である。たとえば、この作品のこの場面。

この場面でジョン・ウェインは自分の見たものはいったい現実だろうかと、バリー・フィッツジェラルドに呟くわけだが、この場面を見ているものも、同じようにまるで夢のようだと感じてしまうと思う。

蓮實さんの場合はたぶん人一倍そう感じてしまう上に、「夢のようだ」とか「絵のようだ」という単なるイメージには帰着させないし、写真や絵を見るときには重要な構図とかは重視しない (そういった構図に凝った画面は小津作品でさえ批判されている)。「動く絵」には別の見方が必要なのだ。蓮實さんの独特な点は動くもの、変化するものを断固として「イメージ」にだけは帰着させまいとしているところだ。

それでジョン・ウェインが近づいていく穏やかな陰をつくっている木の太い幹の迫ってくる魅力が一連のアクションを引き寄せる存在=力として語られ、右足の靴の裏でマッチを擦って煙草に火をつけるところの同軸のアクションつなぎ (最後の画面奥に馬車が見えるショットも含め同軸上の三段階でつながれている)、最初の煙が右手にすっと風に流れて、そのマッチの火を消して捨てようとした瞬間に動作が中断し、バックの旋律が高まるとともにウェインの視線の先に、真紅のスカートをひるがえし、手にした木の杖をいつのまにか左手に握りかえた赤毛のモーリン・オハラが男の視線を意識して振り返ったところが空の映る仰角で捉えられるところが語られる。そのオハラの美しさについては「夢のような美しさ」としてイメージでしか語りようがないのであまり触れられない。それよりも、ウェインとオハラの間はそれ相当の距離があるはずにも拘らず、かなりの大写しで視線の切り返しショットを入れ、しかも二人 (オハラとウェイン) を同じひとつの画面に入れたエスタブリッシュ・ショットが存在していないというフォードの大胆な演出 = 魔法が語られる。ウェインは立ちつくしたままで、オハラはどんどん遠ざかっていくという静と動の関係での表現もまた重要である。

このような分析は「方法」だとか「スタイル」とか「凝視」とか言う前に、好きな場面に対するあられもない「惑溺」「偏愛」ではないだろうか。

1952:
The Isle of Innisfree (Bing Crosby):