ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

キング・ヴィダーの若い頃

植草甚一さんが映画監督であるキング・ヴィダーの生い立ちを書いている文章があって、以前それを要約したことがある。以下それを中心にまとめ直して再掲しておく

キング・ヴィダー (King Vidor) 監督は、1894 年 2 月 8日に合衆国テキサス州のガルベストンで生まれた。彼の祖父は 1848 年の (オーストリア帝国からの) ハンガリー王国独立革命による亡命者である。映画は兄オーギュスト、弟ルイのリュミエール兄弟による「シネマトグラフ・リュミエール」の発明を起源とするという大方の見解に従えば、その撮影と映写の機能を兼ねた装置がパリで開催された科学振興会で公開されたのは 1895 年 3 月のことであり、有料の試写会がパリのグラン・カフェで初めて行われたのは、同年 12 月 28 日のことである。つまり、ヴィダーは映画の歴史が始まる1年あまり前にこの世に生を受けた人である。なお、この年に生を受けた大監督として絶対に忘れてはならない人にジョン・フォード監督がいる。彼は、ヴィダーよりも 1 週間早い、1894 年 2 月 1 日に生まれている。ちなみに、この年 (1894) には他にも目が眩むような巨匠たちが名前を連ねており、やはりいつ生まれるかも才能の一種であると思わざるをえない。フランク・ボゼージ(4 月23 日生まれ)、ジョセフ・フォン・スタンバーグ(5 月29 日生まれ)、ジャン・ルノワール(9 月15 日生まれ)。

キング・ヴィダーが亡くなったのは、88 歳の 1982 年であるが、高度経済成長後期の日本においてまともな追悼がされたという記憶はもっていない。ジョン・フォードが亡くなったのは 1973 年、フランク・ボゼージは 1961 年、ジョセフ・フォン・スタンバーグが 1969 年、ジャン・ルノワールは1979 年であり、ヴィダーは、これらの巨匠たちの中で、もっとも長生きをした人である。その生涯に監督した作品の数は、ジョン・フォード、フランク・ボゼージ監督のそれよりも下回るが、監督として活動した期間は、1913 年の “Hurricane in Galveston” から 1980 年の “The Metaphor” にわたる 67 年間にも及んでいる。あのジョン・フォード監督ですら 1917 年から 1966 年までだったのである。1931 年監督デビューで 2014 年まで作品を発表し続け、83 年間監督であったマノエル・ド・オリヴェイラ監督にはさすがに劣るものの、ヴィダーは映画監督としての経歴が最も長かった一人である。

キング・ヴィダーが生まれたテキサス州の島内都市ガルベストンは、ハリケーンがたびたび襲来する場所として有名である。1900 年 9 月 8 日に合衆国へ上陸し “The Great Galveston Hurricane” として現在知られているカテゴリ 4 のハリケーンによる死者は 6 千人から 1 万 2 千人の間と推定されており、合衆国の歴史の中で、死者をもっとも多く出した自然災害として記憶されている。当時、六歳であったヴィダーはこの災害を経験し、生き残った一人である。彼は後年になっても、この幼いときに直接自分の眼で見、体験した災害についてたびたび言及している。彼が長じて、父親から働くように言われたとき、彼は写真家になろうと考えたそうだが、それはドキュメンタリーを残したいうことで、幼いときの災害体験からそれがきていることは想像に難くはない。

ヴィダーが最初に映画を見たのは 15 歳のときで、それは生地ガルベストンのオペラ・ハウスで特別上映されたジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902) であったという。それからしばらくすると、ガルべトンにあった楽器屋の主人が店の中を片付け、中央を広くし、両側に壁を取り付け、そこで映画を有料で上映しはじめた。ヴィダー少年は夏休みを利用して、そこで切符のもぎりのバイトを始めた。その「映画館」は朝十時半に開館し、夜十時半に閉館したそうだが、映写技師は一人だけだった。技師の昼飯と夕飯の間はヴィダー少年が技師にかわって映写機のハンドルを廻した。そこで上映された映画は、マックス・ランデの一巻物のような作品が多かったが、中には二巻物の『ベン・ハア』(1907) もあったという。ヴィダー少年は一日中、何回もそれらの作品を繰り返し見ていたことになる。彼は夏休み中、そこで働いたそうである。

ある日、ヴィダーが友達のロイ・クローの家に遊びに行くと、その友達が廃物を利用して夢中で手製のキャメラを組みたてていた。二人は百フィートの生フィルムを苦心して手に入れ、最初のテスト撮影をおこなうことにした。その日はちょうど暴風雨だったそうである。二人は、手製キャメラをもって海岸に行き、そこにあった脱衣所がいまにも風に吹き飛ばされそうなのを見ると、それにキャメラを向けて風に飛ばされないよう固定して、波が防波堤を越え、脱衣所が滅茶苦茶に吹き飛ばされる光景の撮影に成功する。撮影フィルムをシカゴに送って現像と焼き付けをしてもらったところ、はたして、ピンぼけながらその光景はしっかり映っていた。そのフィルムは、方々のニッケル・オデオンから暴風雨のドキュメンタリーは珍しいので映写したいと申し込みがあったそうである。これが、彼の処女作である、1913 年の “Hurricane in Galveston” であろう。それが、後の『オズの魔法使い』(1939) の竜巻のシーンに反映しているのではなかろうかということについてはすでに書いた。

そうこうするうち、メキシコのヴェラクルスで反乱がおき、それを鎮圧するため、アメリカ軍がガルヴェストンの港にたむろし始めたそうである。映画作りに目覚めていたヴィダーはこの出来事を記録したくてたまらなかったが、前に使った友達のキャメラはすでに壊れて使いものにならなくなっていた。あきらめきれないヴィダーは、ミューチュアル社 (チャールズ・チャップリンと 1916 年に契約する映画会社) が当時所有していたニュース映画部門に手紙を書いて、テキサス州の特別映画班員にしてくれるように頼んだ。ミューチュアル社からは、使えるフィルムに対しては、1 フィート 60 セントで購入するとの返事があった。そこで、ヴィダーは「ポピュラー・メカニック」誌をめくって、ニューヨークの写真機材店に百フィートのネガ二巻を注文するとともに、テキサスで撮影機をもっているものがいたら教えてくれとも書いた。すると、その写真店からヒューストンでネガを注文した男がいるとの連絡がある。彼はヒューストンまで出かけ、その男にミューチュアル社からの手紙を見せ、儲けは半分ずつにしようと持ちかけて、相手をその気にさせた。そして、ガルベストンを出発した軍隊 1 万名余りがヒューストンに到着するところをフィルムにおさめようと決める。苦心して撮影プランをたてたヴィダーは、このときの経験が『ビッグ・パレード』(1925) に活かされたと語っている。軍隊の行進の様子を撮影したフィルムは、1 フィートも残さず採用され、米国のみならず海外でも上映されたという。これが、1913 年の “The Grand Military Parade” であろう。

ヴィダー は、この後すぐに西海岸へ映画作りに行ったのではなく、軍隊の行進を一緒に撮影した男と、ヒューストンに事務所を借り小さな映画会社を作っている。その会社では、予算二百ドルで、二巻物の映画を製作しようと試みる。自分が主演し、自動車競争を取り入れたコメディらしく、題名は『競争は二着』というものだったようだ。ところが女優がいない。そのころ彼の友達が、たまたまスポーツカーに乗っている見知らぬ娘を認めてとても綺麗だと気に入ったのを、ヴィダーが仲介役になって、その娘の名前を調べて彼女に電話したそうである。彼女の返事は「家に遊びにいらっしゃい」というものだった。この娘の名前こそ、後にエルンスト・ルビッチの『結婚哲学』(1924) でヒロインをつとめ、後にヴァイオリ二スト、ヤッシャ・ハイフェッツと再婚するフローレンス・ヴィダー (Florence Vidor)、当時はフローレンス・アルトーである。

友達を無視して彼女と仲良くなったヴィダーは、相手女優もこれできまったと思っていたらしい。彼女は映画界にもともと憧れていたのを知ったからである。ところが、娘の父親はかんかんで、ヴィダーは、その家の出入りを禁止されてしまう。それでも、二人はその後内緒に会っていたが、相手女優は別の人を探すことになり、女優がようやく見つかったついでに、セジウィックというヴォードヴィルをやっていた男も見つかり、最終的には、自分が主演ではなく、この男を主演にした二巻物喜劇を二本作ったという (この作品は、彼のフィルモグラフィーにはのっていない)。出来上がった作品をニューヨークの映画会社になんとかして販売し、配給先を増やそうと、押し出しを良くするために山高帽とステッキを買い求め、フローレンスの父親を一生懸命くどきおとし、急いでフローレンスと結婚式をあげると、美しい妻と同伴で意気揚々とニューヨークに出発したそうである。ニューヨークでの商談はなかなかまとまらなかったが、とうとうブロードウェイにできた新しい配給会社と契約することに成功し、テキサスに戻ると、ネガをその配給会社に発送した。

しかし、ネガを送って1ヶ月たったところでその配給会社は倒産してしまう。送ったネガも返却してもらえない、お金ももらえない。そのショックで主演のセジウィックは、ハリウッドで一旗あげると言い残して逃げていってしまう。途方に暮れていたところ、ヒューストンにある精糖会社の経営者の息子から会社の宣伝をかねた二巻物を作ってくれという依頼がまいこむ。これは総額 800 ドルの請負仕事であった。ヴィダーは砂糖が精錬されていく様子をフィルムに納めるとともに、初めて妻となったフローレンス・ヴィダーを映画に出演させる。そして、その製作で得た金で一台のフォード車を買う。その車で、セジウィックを追って夫婦でハリウッドへ行き、そこで一旗あげるつもりだったのである。それは1915 年 (大正4年) のことで、彼はこの年 21 歳になっており、妻のフローレンス・ヴィダーはこの年、20 歳になっていた。

当時の舗装されていない道路で、テキサスのヒューストンから、ハリウッドにまで行くには、1 ヶ月以上かかる。ヴィダーは、車以外にエルネマン・キャメラと質流れの三脚も一緒に買って、その車に積み込んだ。当時、フォード自動車が会社の宣伝のために旅行映画の短編を製作していたので、自分達の旅行の道すがら、周囲の景色を映してフォード自動車に売りこもうと考えたらしい。実際、コロラド・スプリングの景色などを撮影したフィルムをフォード社へ送り、代金の小切手は到着予定の土地銀行を指定して受け取るという方法で、旅行の費用を稼いだ。セブン・フォールズを撮影した際には、固定三脚でキャメラをパンニングする方法を工夫して撮影したという話しも残っている。しかし、そこで撮影したフィルムに対する小切手の振り込みは二ヶ月先ということになってしまい、旅行の費用が怪しくなっていく。

ソルトレークに着いたころは、もう 4,000 マイルを走行している。当時のタイヤの寿命は、3,500 マイルといわれていた。お金は 7 ドルしか残っておらず、タイヤは 15 ドルした。心配していたとおり、タイヤは砂漠の中でパンクしてしまう。通りがかった同じフォード車に乗っていた人からタイヤを 1 ドル 50 セントで借りて、ようやくその危機を脱出したという。その他、凶暴なジブシーに襲われそうになったり、山の上で野宿して凍死しかけたというような話しも残っている。

カリフォルニアのオークランドに着いたとき、所持金は 1 ドル 20 セントであったという。オークランドからサンフランシスコに入るのには、当時は船で行く必要があり、それで 1 ドルかかった。ヴィダーはチャイナタウンの質屋で拳銃を質草にして、 2 ドルを手に入れそれで安ホテルに宿泊したとある。翌日、フォード車を売って、それからサンタモニカへと足を踏み入れた。

サンタモニカの北 5 マイルの一帯は当時、インスヴィルと呼ばれトマス・H・インスの所有地で、そこには彼の撮影スタジオがあった。また、サンタモニカ市街にはヴァイタグラフ社があった。サンタモニカにはヴィダーの従姉がいて舞台俳優と結婚していた。そのつてをたどって、二人はヴァイタグラフ社の主任監督に面会にいく。監督は、フローレンス・ヴィダーの魅力にうたれて、すぐにフローレンスは契約に成功する。給料 1 週 2 日働いて 10 ドル、それ以上は 1 日につき 5 ドル増しという条件だったという。

二人は、撮影所から遠くない海沿いのアパートの台所がついている一室を借りて生活を始める。ヴィダーの方は、ニュース映画の請負と、シナリオをインスヴィルまたはヴァイタグラフに売り込んで生計をたてようと考えていた。しかし、シナリオの方は 52 編書いたが売れない。53 編目がようやく 30 ドルで売れたが、それはタイトルが『降れば必ず土砂降り』という題名で、当時サンタモニカでは珍しく雨が 1 ヶ月近くも降り続き、雨の中でも撮影できるシナリオが求められていたからだという。

そのうち、インスヴィルもヴァイタグラフもハリウッドへ移転してしまう。二人もそれにあわせてハリウッドへ移り住む。ちょうど、D・W・グリフィスが『イントレランス』(1916) を撮影している頃で、ハリウッドで探した下宿屋はそのバビロンの宮殿の巨大セットがあった場所のすぐ傍であったという。二人がテキサスを出発した 1915 年にグリフィスの『國民の創生』(1915) が公開されており、ヴィダーはこの映画のクロス・カッティングの手法に興味を抱いていた。オープンセットの監視人と仲良くなったヴィダーは、このセットに潜り込み、グリフィスが実際に監督をしているところや、セットの詳細、軽気球にキャメラをのせてバビロンの宮殿を撮影しているところを自分の眼で見ている。

ヴィダーは、この間も仕事を探してハリウッドの撮影所を歩きまわり、何度も断られた末、やっとユニバーサル社の会計事務の仕事を週給 12 ドルでえることができた。ユニバーサルのスタジオは、ハリウッドではなくサンフェルナンド・バレーにあったので、ハリウッドから通勤するには交通費がかかるが、それでも二人の給料をあわせれば、なんとか週末に一緒に食事をして映画を見るぐらいの生活はできるようになった。ただ、ヴィダーは会計の仕事は好まず、匿名で脚本を書いてあちこちに売り込んでいる。それがもとで、同社の脚本部に所属することができるようになる。週に三本短編の脚本を書いて 40 ドルもらえたという。当時は、マック・セネット喜劇が全盛時代だったのである。ところが、ユニバーサルは、本社の決定で短編喜劇の製作を中止することになり、ヴィダーは、ユニバーサル社を解雇されてしまう。

しかし、すぐにヴィダーは新しい仕事を見つける。それが、ウィリス・ブラウン (Willis Brown) 判事の “Boy City Film” の仕事である。映画を作るようヴィダーに発注し、彼に製作の機会を与えたブラウン判事は、本当に判事の正式な資格を有していたかどうかはわからないが、実際にユタ州の少年裁判所の判事を務めたことがある。彼は、孤児や青少年犯罪者、家出人たちに避難、更正、教育のための施設ネットワークを全米各地に作るのだが、その構想実現の一環として、1920 年代には、やがて MGM の拠点となるカリフォルニア州のカルバーシティに低予算のフィルム・スタジオ、“The Boy City Film Company” を作っている。そのスタジオでは、少なくとも 22 本の作品が作られている。それらは、もっぱらモラル教育のためのコンテンツ作成や宣伝を行う目的で、ブラウン判事が資金を提供して作らせたものである。若いヴィダーは、このスタジオで少なくとも 16 本の作品を監督し、監督最初期のキャリアを磨くことになる。そこでの低予算でのフィルム作りの経験が、ヴィダーに経済的に効率的な演出方法を工夫することを学ばせたと思わせる。もちろん、無駄のない映画演出というのは、経済的成功をもたらすだけではなく、画面の簡潔さが究極まで追求されたとき、そこに初めて作品の「魂」のようなものが見えてくるという点で重要である。彼が後に監督する『ビッグ・パレード』(1925) は、サイレント映画において、もっとも収益性の高い作品として評価されることになり、それに感謝した MGM 社の伝説的プロデューサーであるアーヴィング・タルバーグは、彼に『群衆』(1928) のようなやや実験的な作品作りを許すことになるのである。

ヴィダー が “The Boy City Film Company” で作った短編作品は、現在のフィルモグラフィーでは、以下のものとされている。

1918 Bud's Recruit
1918 The Chocolate of the Gang
1918 Marrying off Dad
1918 The Lost Lie
1918 Tad's Swimming Hole
1918 Thief of Angel
1918 The Rebellion
1918 The Preacher's Son
1918 A Boy Built City
1918 The Accusing Toe
1918 I'm a Man
1918 Love of Bob
1918 Dog Vs. Dog
1918 The Three Fives
1918 The Case of Bennie
1918 Kid Politics

最初の “Bud's Recruit” は、現在 YouTube で見ることができる。

この短編は第一次世界大戦の参戦を合衆国民衆に呼びかけるプロパガンダ映画であるので、作品の内容面については不愉快と思われるところもあるが、この映画で見るべきことは、24 歳ぐらいのヴィダーがどのように、与えられた題材を処理しているかである。ストーリーも最初だけ簡単に記載しておく。

バド (Bud) は、寡婦の二人の兄弟の弟の方である。1914 年に始まった第一次世界大戦に米国が正式に参戦したのは、1917 年 4月のことである。弟のバドは、その戦争熱に浮かされており、まだ兵役従事の資格年齢に達していないものの出征をしたくてしょうがない。そこで子供たちを組織して軍隊の訓練をしたりしている。一方、兄のほうは出征できる年齢に達しているものの、戦争には全然興味がない。母親は母親で第一次世界大戦へアメリカが参戦することには反対で地元でその活動を実際に行っていたりするらしい。第一次大戦の最中は、毎週月曜日は「肉なしデー」として戦争協力が推奨されているにもかかわらず、バドの家庭ではそれが無視されており、そのことにバドは不満で、夕食も食べようとしない。(以下略)

“The Boy City Film Company” で短編を製作した実績から、彼は長編の作品を作りたいという希望をもつが、この段階ではまだ映画会社からは採用してもらえなかった。ヴィダーは、“The Turn in the Road” というシナリオを書く。そのシナリオをブラウン判事を支援しているハリウッドの歯医者が読んで感心し、これを映画にするにはいくらかかるのかとヴィダーに尋ねる。ヴィダーは 1 万ドルと答えたそうである。その歯医者は仲間の医者たちに声をかけて一人千ドルずつ出資させる。しかし、最終的には 1 万ドルにはとどかず、9 千ドルにとどまった。ヴィダーはシナリオを書き直して、9 千ドルで作品があがるようにする。このとき映画製作のために作られた会社が、“Brentwood Film Corporation” である。Brentwood は医者仲間のゴルフクラブの名前だったという。

こうして 9 千ドルの予算で出来上がったのがヴィダーの処女長編である、『故郷への道』(The Turn in the Road, 1919) である。封切りしてみると非常に好評であった。最初は、サンフランシスコのクインス・リアルトという小屋にかけられたが、普段はまったく客が入らないその小屋が 11週目になっても満員のロングランとなる。医者の一人がニューヨークの配給会社に見せて交渉したが、最終的には RKO 社の前身にあたるロバートスン=コール社が配給することとなり、1 万ドルを前払いしたという。こうして『故郷への道』は全米でロードショーされたのだが、興業収入は 36 万ドルを超えたという。ヴィダーの方も、この作品がきっかけで、一躍、新進監督として注目されることになる。そして、この Brentwood のために、他に三本の作品を監督している。なお、これらの作品は現在すべて失われてしまっている。

その後、ヴィダー夫婦はニューヨークに行き、ホテルに着くとすぐに、いろいろな映画会社から声がかかったそうである。最終的にファースト・ナショナル社とヴィダーは契約し、メジャーの監督となる。作品の製作のために、7 万 5 千ドルの小切手が彼に渡されたという。そして、『涙の舟歌』(The Jack-Knife Man, 1920) は非常に好評で、これによってキング・ヴィダーという名前は確立されることになるのである。

最後にキング・ヴィダーの『ハレルヤ』(1929, ヴィダー 初のトーキー) より前に作られたサイレント長編のフィルモグラフィーをあげておく (“Boy City Film” 時代までの短編サイレント作品は除いた)。※がついているものは、ロストしていると考えられているもので、調査時点で計 7 本あった。また、現存していることが確認されている作品でも DVD で見られるものは更に限られる。

  1. The Turn in the Road 『故郷への道』 1919 ※
  2. Better Times 『楽しき時間 (益々順調)』1919 ※
  3. The Other Half 『除隊の後』 1919 ※
  4. Poor Relations 『素朴なる同胞 (野の花・庭の花)』 1919 ※
  5. The Family Honor 『名門の血』 1920
  6. The Jack-Knife Man 『涙の舟歌 (短剣児)』 1920
  7. The Sky Pilot 『曠野に叫ぶ』1921
  8. Love Never Dies 1921
  9. Real Adventure 1922
  10. Dusk to Dawn 『黄昏より黎明へ』1922 ※
  11. Conquering the Woman 『征服されし女』 1922
  12. Peg O'My Heart 『君が名呼べば』1922
  13. The Woman of Bronze 『彫刻家の妻 (塑像の女)』1923 ※
  14. Three Wise Fools 1923
  15. Wild Oranges 1924
  16. Happiness 『母を死守して』1924
  17. Wine of Youth 『青春の美酒』1924
  18. His Hour 『男子凱旋』1924
  19. The Wife of the Centaur 『半獣半人の妻』1924 ※
  20. Proud Flesh 『腕自慢』1925
  21. The Big Parade 『ビッグ・パレード (大進軍)』 1925
  22. La Boheme 『ラ・ボエーム』1926
  23. Bardelys the Magnificent 『剣侠時代』1926
  24. The Crowd 『群衆』1928
  25. The Patsy 1928
  26. Show People 『活動役者』1928

涙の舟歌:

曠野に叫ぶ:

※ コリーン・ムーアが出演している。

Peg O'My Heart:

ラ・ボエーム:

剣侠時代:

※ ジョン・ギルバートと共演しているエレノア・ボードマンはヴィダー の再婚相手である。

The Patsy:

※ マリオン・ディビスがメイ・マリー、リリアン・ギッシュ、ポーラ・ネグリの物真似をしている。ディビスはメディア王と呼ばれたランドルフ・ハーストの愛人であり、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941) のケーンはハーストがモデルで、ディビスは大根役者 (「ケーン」ではスーザン・アレクサンダーという下手な歌手に置き換えられている) として描かれているのは周知のとおりである。実際、ハーストは 46 本も彼女の映画を作らせ、それらはすべて失敗に終わったとされるのが通説である。しかし、その 46 本の作品を実際に見て、マリオン・ディヴィスが本当に大根役者だったかを確認した人はどのくらいいるのだろうか。

活動役者:

※ これもマリオン・ディヴィスの主演作である。バック・ステージもので、当時のハリウッドのスタジオの様子が見られる。最初のスラップスティック・コメディが撮影されている「コメット・スタジオ」は、マック・セネット喜劇が撮影された名高い「キーストン撮影所」の跡地で撮影された。登場している実際の映画関係者として、キング・ヴィダー自身が、『ビッグ・パレード』のような作品の監督として実名で登場している。また、ジョン・ギルバート、チャールズ・チャップリン (普段着でメイクなし) 、ダグラス・フェアバンクス、ウィリアム・S・ハート、ノーマ・タルマッジなどの面々が登場する。また、ヴィダーによる『剣侠時代』のギルバートとボードマンの小舟でのラブ・シーンがそっくり使われている。


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