下のクリップは、ヴィンセント・プライスがエドガー・アラン・ポーの詩「大鴉 」(The Raven, 1845) を朗読しているものである。
プライスは、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のナレーションと笑いのパートを担当していることで記憶している人もいるかもしれないが、もちろん、もともとは映画俳優である。1960 年代のロジャー・コーマンの低予算映画は、その作品の多くで主役を務めた彼の存在なしには考えられない。
また、ティム・バートン監督が彼を敬愛していることにも触れておくべきだろう。バートンの監督処女は、“Vincent” (1982)という短編アニメーションであるし、プライスの遺作は『シザー・ハンズ』(1990) への出演である。
ロジャー・コーマンが製作・監督した AIP (American International Pictures) 社配給のホラー映画のひとつに “The Raven” (1963) がある。邦題はなぜか『忍者と悪女』となっていておかしいが、もちろん忍者などこの作品には出てこない。
ドライブイン・シアターに若者向けの低予算映画を配給することで急成長した AIP 社は、1954 年に設立された ARC 社(American Releasing Corporation)を母体にしているが、米国内で製作された作品だけでなく、米国外から映画作品を買いつけ国内へ配給したことでもよく知られている。たとえば、日本の怪獣映画も、本多猪四郎・円谷英二特撮による『マタンゴ』(1963)、『モスラ対ゴジラ』(1964)、『ゴジラ対ヘドラ』(1971) や、大映のガメラもの、日活の『大巨獣ガッパ』(1967) にいたるまで扱っていた。アメリカ人が「ゴジラ」をある程度知っているのは AIP 社のお陰といっても過言ではないだろう。
また、コーマンが後年設立した配給会社、ニュー・ワールド・ピクチャーズは、フェリーニ、ベルイマン、トリュフォー、黒澤明監督などの外国作品を輸入し、米国で公開している。
ロジャー・コーマンと AIP 社が若い映画人を育てる場となった事実もすでにあちこちでよく言われているとおりである。若者向けに、低予算作品を大量供給するという姿勢が若い映画人に実作の機会を提供したのである。一応書いておくと、フランシス・フォード・コッポラ、モンテ・ヘルマン、ピーター・ポグダノビッチ、ダニエル・ホラー、ジャック・ヒル、ジャック・ニコルソン、ピーター・フォンダ、ロバート・デ・ニーロ、ウィリアム・シャトナー、ブルース・ダーン、デニス・ホッパー…… といった面々が育った。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーは AIP 社を離れて『イージー・ライダー』(1969) を撮ることになる。
ロジャー・コーマンは、前記した AIP 社の前身である ARC 社と1955 年に 4 本の西部劇を製作する契約を結び、その映画を撮り始めるにあたって、当時 UCLA の映画学科で教えていた フロイド・クロスビー (40〜 50 年代 B 級映画を数多く撮影した経験をもつ) を引き抜いており『忍者と悪女』もクロスビーがキャメラを担当している。つまり、どんなビジネスでもそうであろうが、ベテランもまた必要なのである。
『忍者と悪女』は、1962 年 9 月 21 日に製作開始、1963 年 1 月 25 日に AIP によって全米公開された。実質の撮影は 15 日間だったそうである。製作費はわずか 35 万ドルだが、配収は 140 万ドルを超えたという。出演者の総数は死体役を入れても 10 名。上映時間は、理想に近い 86 分である。
出演は、ヴィンセント・プライスの他、ボリス・カーロフ、ピーター・ローレ、ジャック・ニコルスン、ヘイゼル・コートなどのコーマン映画でおなじみの面々となっている。
ヴィンセント・プライス (冒頭の写真右) は オットー・プレミンジャー監督の『ローラ殺人事件』(1944) で脇役をしており、ホラー映画の主役をするようになるのはこの後からである。持ち味のどこかしらユーモアを感じさせる演技が、この映画のコメディ・タッチに本当によくあっている。Raven にひっかけた 「Craven 博士」というのが、その役名である。
他の名優たちの怪演もまた素晴らしい。ジェームズ・ホエール監督の『フランケンシュタイン』(1931) を始めとするユニバーサル・ホラーに出演した大役者、ボリス・カーロフ (写真左) は 1887 年生まれだから、この作品のときはもう 75 歳 である。ピーター・ローレ (写真中央) もドイツ時代のフリッツ・ラング監督の『M』(1931) のときから 30 年以上がたっている。ユダヤ人だったローレは、まず英国にわたりアルフレッド・ヒッチコック監督の『暗殺者の家』(1934) に出演した後、ハリウッドに亡命したのである。アドリブであろうが、その台詞が本当に面白い。
この作品、構成もなかなかよくできていて、たとえば、洒落ていると思ったのは、映画の最後で大鴉にされたピーター・ローレが、嘴を閉じられて喋ることができなくなると、プライスが “Quath the raven, nevermore.” とポーの詩を引用してエンディングになるようなところである。脚本はリチャード・マシスンであり、コーマンのエドガー・アラン・ポーの作品シリーズを担当している人である。なお、撮影としては馬車が疾走するシーンが素晴らしく記憶に残る。
コーマンは、1960 年に、『アッシャー家の惨劇』、61 年に『恐怖の振子』、同年に『姦婦の生き埋葬』、62 年には、三作のオムニバスからなる『ポーの恐怖物語』(日本では三作別々に公開)、同年に本作、64 年にはイギリスでニコラス・ローグのキャメラにより『赤死病の仮面』を撮り、同年の『リージアの墓』がポー・シリーズの最終作となっている。