ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

落下傘は開いた


米大統領の宮中晩餐会での「おことば」を読んでいると、

私自身の貴国との最初の思い出は、1970 年の大阪万博であり、(中略) チャールズ・リンドバーグ飛行士に、水上飛行機シリウス号の操縦席に乗せていただいたことを、今でも鮮明に覚えています。

という箇所があり興味を引いた。リンドバーグ夫妻は 1931 年にロッキード社の水上飛行機シリウス号でニューヨークを出発し、アラスカ経由で来日し、関東では霞ケ浦に 8 月 26 日の午後着水している。この 1931 年は飛行機にまつわるニュースが多い。次の東京朝日新聞 3 月 7 日付け夕刊の一面記事もそのひとつである。画像が粗いので全部解読できなかったが、文章が大変に上手い。なんだ、日本の新聞だって NY タイムズの記事が書けるぐらいに筆がたつ人は過去にはいたんだと思った。せめて、スポーツ記事ぐらいこれくらいの現場感ある筆致で書いてくれれば、喜んで新聞読むのに。


國産パラシュートの製造者たらんがためにはまづ自分で飛降りて見なければ、と芳紀やっと十九歳の女性、若い胸に雄雄しい。希望と決意で躍り出た日野パラシュート研究所の宮森美代子さんの飛行機上からの初降下は六日午前千葉県津田沼海岸伊藤飛行場で行はれた。この日は良い天気に加へて風もなく、干潮時を利用する砂地の飛行場は午前十時にはカラリと潮が引いてしまった。可愛い娘さんの空からの飛降りといふので社會的のセンセイションを起して居るだけに飛行場は大變な見物人、然も大部分は同性のよしみといふのか女ばかり。兵隊さんも五十人ばかり見にくれば偵察機も飛んでくる、驛からの乗合自動車は飛行場行きで幾ら通っても乗せ切れないで見物人は何丁も続くといふ騒ぎ、晝頃には五千人にも達したであろう。露店が見るゝ内に七八軒も出来るといふ位。さて飛降りようといふ美代子さんは日野研究所員に付添はれて午前九時飛行場に来て十一時頃にはもう降下用服に身を堅め、パラシュートを身に付けた。今生死の窮(きわみ)に立つ放れ業をやらうといふのにいとも平然としてほゝ笑んで居る。(2字解読できず)が乗る空中作業會社機は早くから飛行場に引だされてエンヂンの調子を調えつゝ準備を急ぐ。午後零時、総ての準備が成った。美代子さんは見物人から期せずして起る歓呼の聲に送られて機上の人となり、奥山飛行士の操縦で機は磯浜を蹴って勇ましく離陸した。見物人はもう夢中になって機の行方を見つめる。機は大きく右に旋回して飛行場の上で高度をとって行く、三百――四百――五百メートル――かくて場の中央の空を通過すると見る内パッと飛び出した黒い一塊り、美代子さんが機から飛びだしたのだ!弾丸の如く落ちるよと思ふ瞬間パラシュートはパッと白く大きく開いて、彼女の身體をフハリと支えた。この時飛行場は息詰るやうな緊張が一度に破れて「アゝ開いた!」と素晴らしい熱狂、観衆は我を忘れ躍り上がって喜び騒ぐ。その内にもパラシュートはフハリゝと見事に谷津遊園海岸の砂上に下降した。時に午後零時十分、大地に降りた美代子さんは勇敢にも起き上がって歩きだした、ドッと起る感歎の聲!万歳の聲!!この時若きパラシューターの上に「日本一」の栄冠が輝いた。見て居た人はもう寄って集まって胴上げすること十分間も続いた。