日本の米の一人当たりの消費量は、1962 年を戦後のピークに下がり続けて半分以下になり、2016 年にやっと少し消費が前年より増えたというニュースが流れたものの、一時的なものに過ぎず、その後も下がり続けているようだ。確か一人あたりの米の消費量の国別比較では、今や世界 50 位ぐらいで、この前発表があった幸福度ランキング(58位) とほぼ同じぐらいの順位である。もっとも幸福度ランキングなんてキリスト教的価値感にもとづくものだし、そもそも何が幸福かなんてそれぞれの個人が定義するものだから、もちろん話半分と思っていないといけない。
アジアが抱える膨大な人口を考えればすぐにわかるが、米はその膨大な人口を支えるコストパフォーマンスの非常に高い優秀な食べ物であることは誰も否定できないだろう。この前の見田さんの本にもあったように、世界人口は増加を続けているが、増加率自体は、1965 - 1969 年の年率 2.1 パーセントをピークに減少に転じている。最後に人口が飛躍的に増えるのはアフリカだが、食料はどうするつもりなんだろうと心配になってしまう。もっともアフリカの米生産量は 2008 年から 2018 年に倍増、つまり年率 7 % ぐらいで増加している。日本では過去には冷害に強い米の品種改良が進んで、いまや北海道は米の主要生産地であるが、これからは逆に地球温暖化に対応した品種改良が進むのだろう。
バングラデシュの一人当たりの米の消費量は、2010 年では世界一で、一日一人あたり、おにぎり 10 個ぐらいを消費していたが、2016 年は 2010 年から 20 パーセントぐらい減って世界一ではなくなったようだ。それだけ、経済成長して食材の選択肢が増えたということだろう。ちなみにバングラデシュの幸福度は世界 115 番目だそうだが、経済大国日本との差ってこの程度の違いなのとも思ってしまう。2015 年にバングラデシュの農村部を二、三訪問したときに、皮相ではあるが村の人々の顔が、日本の通勤電車で見る人々の顔よりも荒んでおらず遥かに明るいなあと感じていたら、車に一緒に同乗していたバングラデシュ出身の同僚から、「貧しいかもしれないけど、楽しそうでしょう」とこちらが感じていたことを見透かされたように指摘されたことを覚えている。見田さんも何かの本で書いていたと記憶しているが、人は、共同体 (ゲマインシャフト) から切り離されて、貨幣を持たないと生きていけないような資本主義社会に組み込まれ、その中で貨幣を持たないことによって始めて貧困になるのである。1 日 1 ドルの収入であっても、共同体の中で守られて暮らしている限りは、貧困という言葉はそもそも意味を持たない。米は一年に三回収穫できるし、いろいろな果物はほぼ一年中なっているし、牛はその辺で放し飼いされている、川では魚が獲れる。またしても皮相的だが、バングラデシュの都市のおぞましさと比較して緑の広がる農村はなんて美しいんだろうと思った。だから BOP (Base of the Pyramid) なんていう、収入の経済ピラミッドだけで人を区分するのは本当は適切ではないのではと感じる。同じ収入であっても、都会と農村ではまったく意味が異なるからであり、ここでも現場を見ないで、経済統計だけで何かを判断することは誤りなのである。実際、首都ダッカの貧困の人々の悲しそうな顔は、いたたまれない感じがして今でも慣れない。
あれ?深刻な話になってしまった。
ジョゼッペ・デ・サンティス監督『にがい米 』(Riso amaro, 1949) から: