前回の記事に関連して。
中野忠晴の『小さな喫茶店』の元歌である “In einer kleinen Konditorei” (1929) を今回初めて聞いた。
このクリップには、1930年の映画、『日曜日の人々』(Menschen am Sonntag) の一部が使われていて眩暈のような感覚に襲われた。何回も聞いたはずの中野忠晴の『小さな喫茶店』の原曲が、この作品と同じ時期にベルリンで流行した歌謡であったなんて、いままでまったく気がついていなかった。
『日曜日の人々』は、ロバート・シオドマク、カート・シオドマク、エドガー・G・ウルマー、フレッド・ジンネマン、ビリー・ワイルダーらによる協働作品である。後にナチスの迫害を逃れてドイツからハリウッドへと亡命し映画史に足跡を残すことになるだろう若者たちが集まり、ベルリンを舞台とする映画を作ったのである。
撮影に起用されたオイゲン・シュフタンは、フリッツ・ラングの作品『メトロポリス』(1927) で、「シュフタン・プロセス」という名称で知られるようになる特殊撮影を考案したその人である。
仲間の内、エドガー・G・ウルマーは、すでにアメリカへ行ってF・W・ムルナウのもとで映画作りを経験しているものの、この映画のため、一時的にドイツへ帰国している。ビリー・ワイルダーはスクリプト面だけの参加と思われるが、ロバート・シオドマクとエドガー・G・ウルマーにとっては、彼らの監督処女作になる。
この映画作りが、どのような経緯だったかは知らない。しかし、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929) の影響があっただろうことは想像に難くない。
1929 年に世界大恐慌が起きたといえ、ドイツ、ワイマール共和国では、その影響はまだ限定的で深刻な状況は未だ迎えておらず、二つの世界大戦に挟まれた小康状態の平穏な時期であるといえる (ワイマール共和国は1933年に崩壊) 。
ここに存在している画面は、テレビ画面のように余計なものはあるが、大事なものは存在していないものとは本質的に異なっている。そこには、人が絶対に失ってはならなかったはずのものへの愛おしい手触りが、余分なものを削ぎ落した画面に純粋に存在している。
『小さな喫茶店』というタイトルや歌詞は、日本のこじんまりと仕切られた茶室の伝統すら想起させるものであるが、そこへ、欧州の開放的なキャフェの歌が荒唐無稽に引用されている。
「喫茶店」とは人々にささやかな幸福を提供するために開かれた「寛容空間」であり、そこで顕揚されるのはあくまでも無名の「個」でありその「個」が「日本国籍」を持っているかどうかなんてどうでも良いことだ。映画や音楽が国境など存在しないかのように軽々と越境してみせる爽快なまでの清々しさは、「個」に先立って「国籍」が優先され、その国籍が自国と一致する場合にのみ大騒ぎするあるスポーツ選手へのメディアによる最近の報道のはしたないまでの醜さとは対極的である。
そういえば、最近「純喫茶」(「純」というのは、もともと女給がいて夜には酒も振る舞う「カフェー」との区別でつけられた ) には行っていないことに気がついた。今度、仕事で本郷へ行く機会があるので、時間があったら「レヂスタア」と表記するのがいかにも相応しい「金銭登録器」が置いてある「万定」へでも行ってみよう。