ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

映像

プラトン以来綿々と続く「オリジナル」が「コピー」に優越すると いう考え方は、20 世紀に入ってジル・ドゥルーズ、ヴァルター・ ベンヤミン、ジャン・ボードリヤール、中井正一などによる考察があったものの、21 世紀に入っても至るところに紋切り型の制度的思考として残り、その影響をさまざまに見ることができる。 その一方、インスタグラムでオリジナルの「盛られた」コピーを見るとわかるように、近い将来、真に問題なるのは「コピー 」が「オリジナル」に優越するという事態が生じうることである。 皮肉なことに、そこでは「個性的」でありたいと思う人々が、自らの映像を盛れば盛るほど、コピーの価値が高まって行き、相対的にオリジナルは貶められ「没個性化」していくという事態が生じている。

必要ならばいくらでも複写可能な自らの「盛られた」アバターは、 近未来ではやがて仮想現実の中で自然な動きを獲得し、不得意な英語ですら容易に喋ってしまう。そのアバターを本人が支配していると思いこんでいる内はまだしもだが、あるとき、 まるで内田百閒の短編『映像』さながらに、気がつくと赤の他人に操作された自分のアバターの顔のクロースアップが暗闇の中ですぐ目の前にぬっと出現する。その眼球が赤く血走っているところまでリアルである。自分のコピーが自分を無表情に凝視するその戦慄の中で 、「オリジナル」が「コピー」に優越するという制度的思考は果たして生き延びることが可能なのであろうか。

アメリカ映画がビジュアル化に走ったことが、アメリカ映画のオリジナリティを奪ってしまったことは日々の映画体験がすでに証明している。 古典的なハリウッド映画とは、前々回の記事で蓮實が語っているように「夕陽がきれい」というのをビジュアル化された夕陽のイメージそのもので示すことではなく、「夕陽がきれい」 を暗示するために「夕陽」とは直接関係がない種々の情報を効率的に連鎖させ、組合せることで表現する工夫によって示すものである。そしてその情報を受け取る者は、直接的な感覚刺激だけでなく周辺的なもの、過去の記憶も含めてそれを自分なりに読み解いて理解する必要がある。

別にプラトン主義者ではないが、人間の尊厳や、オリジナリティといったイデア的なものをこれからもなお、残したいのであれば、そういったイデアを過剰で直接的なイメージとして安易にビジュアル化してはならないと思う。イデアは魂として見えないから価値があるのである。技術とはあくまで、その「魂」を唯物論的に擁護するものであり、結果として貶めるものではない。

 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

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