『寝ても覚めても』(2018) は映画館に行ったけれども、公開中だから何も書かない。代わりに昨日の記事を補足すると『めまい』(1958) ではキム・ノヴァクが前半ではマデリンを演じ、後半はジュディを演じてその二人が実は同一人物であったという、よくある話のようにも思えるが、ヒッチコックの演出はやっぱり凄いなあと以前見直したときにつくづく思ったことがある。下の写真が前半のマデリンを演じているキム・ノヴァクで昨日も触れたようにホクロはない。
次の写真は後半のジュディで左頰にホクロがある。
ジェームズ・スチュアートは、いわばジュディをマデリンへと変貌させるための作業をしていくわけであるが、その一環として、グレーのスーツを店で求めるシーンがある。下の写真はそのときのショットであるが、ここのショットが好きである。ここでのジュディは、再びマデリンへと戻っていく遷移過程にあるわけだが、鏡像であるジュディは、左右が逆転し、左の頬にはホクロがないのである。つまり鏡の像はマデリンであり、ここはジュディとマデリンが同時に共存しているのである。
そうやって見ていくとオープニングの有名なシーンであるキム・ノヴァクの顏の大写しは化粧さえしておらず、それはジュディでもマデリンでもない「零度」の顔なのである。しかもその顔は断片化されている。
ついでにジョン・フォード監督の『俺は善人だ』(1935) のエドワード・G・ロビンソンの一人二役のシーン。下の写真では、左の「ジョーンズ」から、右の「マニオン」に夕刊が受け渡されているわけだが、もちろん同一人物(エドワード・G・ロビンソン)が別々に演じたものを合成したシーンであるから、手前のランプで二人の手を同時に映すことを隠蔽しているわけである。