前回の記事で触れたことは、よく言われるような長期的な視点での資源配分がなされず短期的な視点ばかりが強調されることにも確かに通じてはいると思うのだが、こういった現状批判を具体性を欠く理念的なもので行なっても意味はあまりないと思う。
過去の事象にしろ、遠くにある事象にしろ、それがあくまで具体的な細部となって顕在化し「いまここ」と同資格で不意に戯れ始めることではじめてなにか新しいことが起きるのであって、批判すべきなのは「いまここ」の特定の細部だけを特権的に強調することは悪しき具体性にもとづくものであり、結局は「わかりやすさ」による抽象性、イメージ化につながるということであろう。
それは、1984 年にすでに蓮實重彥が言っていることである。そこでは、風俗現象としての「性」の領域における「見える化」である性器の特権化が語られている。当時、素人が大量進出し「ビニ本」「裏ビデオ」等を通じて性器の「見える化」が進行したことは記憶に新しいが、それを蓮實は徹底さを欠いた「悪しき表層化」と呼んでいる。長くなるが蓮實の文章の中で最高のもののひとつと思っている部分を引用しておく。この部分はかなり本気で書いていると今でもときどき思うのだ。なお今回この文章を久しぶりに読んで「塵埃」の語が登場しているのに気がついた。だから「塵埃と頭髪」というフローベールの小説についての批評もあわせて読むとよいかもしれない。比喩が適切かどうかはさておき、イノベーションの新しい定義は下の引用にあるように「性器をあからさまに行使することのない性交」かもしれない。また「表層」とは物質世界でいえば相変化が起きる臨界状態の界面のようなものだということもわかる。
すでに述べたように「性」体験は性器の体験ではない。それは性交ですらない。差異となるためには、素肌を露呈させる必要もなければ性器をまさぐる必要もない。おそらく、からだを接し合うにも及ばないだろう。だからといって、ほどよい距離を介して対象を識別すべく精一杯瞳を目覚めさせることが求められるのでもない。離れていようが衣装をまとっていようが、目をつむっていようが、熟視していようが、存在をいっせいにおし拡げることで同一性の鎖を解き放ち、差異の識別を放棄しながら断片化しつつ、主体を塵埃のように頼りなく拡散させてでも他を欲望し、その欲望の伝播によって他者にも同じ断片化と拡散の運動を誘発することで距離なしに接しあうことなのだ。とはいえ、何も抽象的な議論を展開しようというわけではない。「惹かれあう」という経験を持っているものなら性器をあからさまに行使することのない性交ともいうべきこうした事態に身をまかせることの快感を知らぬはずはあるまい。そして真の表層化とは、この断片化と拡散に適した状態の到来にほかならない。それは、予測や計算を超えて、唐突に「機が熟す」ことだといってもよい。そうした瞬間に立ち会いながら、いまだに「性」現象を性器の体験だと信じこんで相手の衣装を脱がせ、むりやりその性器をまさぐらずにはいられない精神というものは、可能な限り反=表層的で不幸な精神だというべきだろう。今日の先端的な風俗として演じられている「性」現象が批判されねばならぬのは、性器を特権的な商品として大量に流通させることでそうした不幸な反=表層的な精神をだらしなく蔓延させているからにほかならない。これが擬似表層化現象の弊害である。誤解を避ける意味でかきそえておくなら、性器の特権化を排することが、裸女の陰部に黒い汚点を印刷してみたり申し訳程度の薄いパンティをはかせることではないことはもちろんである。こうした操作は、かりに検閲という国家権力の介入に抗う戦略的な意図から出たものであろうと、特権化の維持にしか役立つまい。
「性器」を特権的に強調される様々な語に置き換えて読むことで「短期的な視点=欲望」ばかりが強調されることの弊害を教えてくれる文章だが、それにしても、じゃあなぜ『伯爵夫人』なのかという疑問は工藤庸子さんのように当然なされてよいと思うが、それについてはまた別の話であろう。