物語形式の映画には古典的といってもよい画面構成のやり方があって、それは、キャメラのトラヴェリングやトラックバックやパンといった移動撮影技法がたとえなくても構成できるし、俯瞰や仰角といった撮影アングルにも無関係にありえるし、またクローズアップやズームやスローモーションやストップ・モーションがなくてもできる。ましてや溶明 / 溶暗やオーバーラップやワイプやアイリスなどなくてもよく、さらには音声による台詞や字幕や弁士による解説も必須なものとはならない。
現在もあまたの作品が踏襲しているその映画の語り方がほぼ完璧なやり方で始まったのは、いまだハリウッド (聖林) が存在していない映画創始期にD・W・グリフィスの監督の処女作として作られた 12 分程の上映時間をもつ一巻物映画、『ドリーの冒険 』(The Adventures of Dollie, 1908) においてである。タイトルとエンドマークを入れても、わずか 15 ショットしかないこの『ドリーの冒険』こそがフィクション映画の古典的画面モンタージュをほぼ表現しえた作品である。リュミエール兄弟の『工場の出口』(1895) や『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896) は、映画がその画面に描く特権的な主題とはなにかということを教えてくれるが、グリフィスの『ドリーの冒険』は、映画の画面を経済的に構成しながら有効に物語を語る上で最も基本的なことは何であるかを示している。この作品に較べれば、たとえば世界初の SFX 映画といわれるジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(Le Voyage dans la Lune, 1902) の画面構成など素朴な段階でしかないことがわかる。
タイトル: ADVENTURES OF DOLLIE
『ドリーの冒険』というタイトルから、この作品に出てくる女の子が「ドリー」という名前であることがわかる。
ショット 1:
頭に大きなリボンをした、丈の短いドレスを着たいかにも愛くるしい一人の少女が、木陰から、石段のようなところを駆け下りてくる。その右手には釣り竿のようなもの持っている。物語映画はこのドリーと名付けられた一人の少女の登場の画面によって開始されたのだ!
大きな帽子と、足首まである丈の長いスカートの母親らしい女性が続けて降りてくる。更にスーツを着てネクタイをきちんとつけ、カンカン帽をかぶった父親らしい男性も降りてくる。母親はかがんで、娘を抱いてキスをする。父親も娘を抱き上げ、高い高いをする。父親は娘を降ろし、母娘と別れ、もといた方に戻っていく。
ショット 2:
川岸の小道。犬を連れた二人連れの釣り人が散策している。画面の向こうから、先程の母娘が手をつなぎながら、画面の手前にゆっくりと歩いてくる。道の向こう側には、住居らしいものが見える。母親は手にハンドバッグのようなものをぶらさげている。やがて二人は、右手にある川の流れのほとりの石の上に川に向かって腰を下ろす。母親は、娘が川に釣り糸を垂らす世話をやいてあげる。すると、籠のようなものを三つほど手に持った粗末な身なりをした男が、道の向こうからやって来て、母娘の方に近づいてくる。男はその籠を母親に売りつけようとする。娘の世話にかかりきりの母親は、その男の申し出を断る。男はいったんあきらめて、立ち去りかける。しかし、途中で男は振り返り、籠を道の脇に置いて、母親の背後から忍びより、母親のハンドバッグを奪って逃げ去ろうとする。彼女はそれに気がついて男ともみ合いになる。ドリーも男に立ち向かう。すると、先程の父親がまるで予期していたかのようなタイミングで駆けてきて、強盗になった男を地面にたたきふせ、この危難を救う。父親は男に立ち去れと身振りで示し、邪悪な男は立ち去る。
ショット 3:
画面の左手には幌馬車が、後ろをこちらがわに向けて止まっている。荷台のすぐ前には樽が置かれている。その横には女が一人、寸胴のようなものがかけられた焚き火の前に横たわっている。その向こうには馬が二頭見える。そこに、先程の強盗が戻ってくる。女は男の妻らしい。こちらの女も丈の長いスカートをつけて、エプロンのようなものをしている。先程の夫婦と比べて、明らかに身なりはみすぼらしい。憤懣やるかたない男は、男の右手の怪我を布を巻いて介抱してくれた妻を突き飛ばしたりする。男は、また出かける。
ショット 4:
周りを樹木に囲まれた庭のようなところへ、ドリーと父親が現れる。多分、家の庭なのだろう。二人は庭で、バトミントンのようなものを始める。ドリーも父親も先程の衣装のままである。ドリーの方は、相変わらずあの可愛らしいリボンをつけている。父親の方は帽子を被っていない。そこへ左手から母親があらわれ、父親を呼びにくる。母親も帽子はかぶっていないが、衣装は同じだ。父親はドリーに、待っているように伝え、ドリーの背中をやさしく叩いて、母親の後を追って画面から立ち去る。日の光と、影が美しい。ドリーの白っぽい服も光を反射している。そこへ、先程の強盗となった物売りがドリーの背後から現れ、ドリーを抱え上げて連れ去っていく。そこへ母親が戻ってきて、ドリーを心配そうに捜す。父親も戻ってきて、同じように探し始める。二人の心配はだんだん募ってくる。左手からは黒っぽい服を着た祖母のような人が現れる。右手からは使用人があらわれ、父親と使用人は、ドリーの捜索を始める。
ショット 5:
草に覆われた斜面。画面の右手で、見知らぬ男が草を刈っている。ドリーを誘拐した先程の男が、斜面を駆け登ってきて、姿が視界から消える。暫くして父親と使用人が現れ、見知らぬ男に、声をかけ父親、使用人、見知らぬ男は、斜面を駆け上がって、先程の誘拐犯を追いかける。
ショット 6:
先程のショット 3 の光景があらわれる。ただし、画面の右手にいた馬はいない。馬は幌馬車につながれたらしい。女は、食器のようなものを幌馬車の荷台に積んでいる。そこへドリーを抱えた邪悪な男が戻ってくる。男は女に急いで出発するように急き立て、ドリーを樽の中に隠し、蓋を閉めてしまう。そこへ父親の一行がやってきて、幌の中を娘がいないかと捜すが見つからない。無念の父親達が立ち去ると、男はドリーが入っている樽を荷台に積み込んで、幌馬車を出発させる。
ショット 7:
一本道を画面のむこうから、手前に向かって疾走する二頭立ての幌馬車。砂煙があがっているところは、まるでジョン・フォードの映画のようだ。ドリーは、こうして両親のもとから引き離されていく。
ショット 8:
川岸の斜面を降りて浅瀬を渡る幌馬車。ここもジョン・フォードの映画のようだ。川底の石に車輪をとられたのか、馬車は揺れ、そのはずみでドリーを積んでいる樽が馬車の後部から川面に転げ落ちる。そのことに気がつかぬまま、幌馬車は向こう岸へ向かって走り去っていく。
ショット 9:
樽が水面をゆっくりと画面の向こう側からこちら側に滑るように流されるショット。
ショット 10:
滝の画面。樽が滝と一緒に流される。
ショット 11:
樽が画面の向こう側からこちら側に流されるショット。岩などにぶつかりながら、樽は流されていく(少女はいったいどうなってしまうのか⁉︎)
ショット 12:
同じく、樽が流されていくショット(少女はどうなってしまうのか⁉︎)
ショット 13:
ショット 2 と同じ、川岸の光景。向こうには、ショット 2 と同じ家が見える。母娘が釣りをしていたところと、ほぼ同じ位置で男が釣りをしている。男の方に樽が流れてくる。すると、先程と同じように、まるで予期していたかのようなタイミングで父親が釣り人の方に駆け寄り、濡れた樽を岸に担ぎあげる。父親が蓋を開けると中からドリーが見つかる。父親はドリーを抱えあげる。母親も向こうから駆けよってきて、ドリーを抱きしめる。
エンドマーク
この作品については「季刊 映画 リュミエール」第 6 号(1986 – 冬)に、蓮實さんが『単純であることの穏やかな魅力』という文章を書いている。この記事は、その後どの本にも所収されていないと思うが、内容が実にすばらしく、当時、何回も読んだことを覚えている。簡単にではあるが要旨を紹介しておきたい。
【要旨】
I ドリー効果
・われわれは、この作品を見て娘を誘拐されて絶望の淵に沈んだでもあろうこの若夫婦が誰であるかをまったく知らずにいる自分を、ふと訝しく思う。われわれに知らされているのは、少女が、ドリーという名だということのみである。その名前は、観客のすべてが『ドリーの冒険』という題名として読んだ名前である。
・この「ドリー」という女性の固有名詞を知らないことは、映画史においては糾弾されるべき無知と見なされる。なぜならば、この「ドリー」という名前は、映画史において意義深い分節化を演じているからだ。
・というのは、この作品はそれ以前の「素朴派的な映画」とこれ以降の「古典的な映画」を分かつと言えるからである。見かけの素朴さにもかかわらず、『ドリーの冒険』は、今日われわれのまわりに生産され消費されている数ある映画と物語的な構造としてほぼ同じものである。
・映画を見るということが二つの分岐した作業であることは誰でも体験として知っている。一つは、スクリーンに映る視覚的な被写体をその都度、識別する作業。もう一つは、すでに形成されている物語的な枠組みに従い、その物語の一部を判読していく作業である。
・「素朴派」の例として、エドウィン・S・ポーターの『アメリカ消防夫の生活』(1903), 『大列車強盗』(1903) をとりあげると、物語の判読の作業は、視覚的な被写体の識別の作業と一致している。物語は画面毎に律儀に消費されるのみで、観客は画面の連鎖に先回りしたり、それに遅れをとる権利をもっていない。
・『ドリーの冒険』の終わり近くでは、観客は冒頭の川沿いの道を再びスクリーンに認める。同一のアングルが捉える同一の風景の中に樽が流れてくるのをみて、物語が終わりに近いことを予見する。その期待は、物語の識別が画面に現実に描かれるものに先行していることを示している。こうした、画面の組合せによる親密感の生成を「ドリー効果」と呼ぶことにしたい。
II 画面の発見
・グリフィスがその処女作(『ドリーの冒険』)で発揮した「ドリー効果」とは、何よりもまず、大胆な単純化による物語の経済的有効性の確立にほかならない。
・それは、まず登場人物の数に表れる。
・『大列車強盗』には、数え切れないほどの人物が登場する。その中で同一性をかろうじて識別できるのは、冒頭で賊に縛られて床に投げ出される駅の通信技師一人にすぎない。ふと駅に足を踏み入れる少女が床に転がった通信技師を発見して驚く姿をみて、人は、ああ、やっとこれで追跡が始まるなと思う。観客が先行した物語認識を許されるのは、この瞬間だけである。
・『ドリーの冒険』では、登場人物は十人といない。しかも、重要な人物は五人に過ぎない。その単純性によって、物語の構造がすぐ浮かびあがってくる。つまり、若夫婦という系列と、物売りの男と同行の女の系列があり、その二つの系列の間をドリーという少女が往復する物語構造として還元されることがすぐにわかる。
・このことから、「ドリー効果」の別の側面が明らかになる。物語が対照的に二系列の間の葛藤として語られるのにふさわしいよう、視覚面でもその葛藤の強調が行われるということである。
・系列間の違いの強調としては、まず、生活様態の違いがあげられる。一つは定住している比較的裕福そうに見える若夫婦の系列であり、もう一つは幌馬車を生活の場としている物売りの男と女の系列の違いである。
・もう一つは、系列の間の衣装の違いである。若夫婦は裕福であることを示すような衣装を最初から念入りに着こんでそれを印象づけている。一方、物売りの方は貧困と怠惰を直裁に物語るような衣装を着込んでいる。
・以上のような二項対立的な図式を強調する一方で、この作品に出てくる「樽」は重要である。それは、「定住」「放浪」といった図式性を伴った単なる二元論的な対立に還元することなく、流れる川の「水」という自然の表情をかりて、唐突な豊かさを物語りに導入する横断的な媒介性を果たしている。
・したがって、真の「ドリー効果」とは、二元論的な対立がきわだたせる葛藤そのものではない。それは、そこに醸し出される劇的な対立をあたかも嘲笑するかのように、異質の二要素の間に拡がりだす時間的=空間的な距離を奇跡のような自在さで漂流する運動そのものにほかならない。映画にあっての画面とは、その自在な漂流を支えるスクリーンのようなものだ。
III あの美しい大きな帽子
・さらに「ドリー効果」の別の側面は、光と影それじたいの魅力に向けての知的武装解除へと感性を導くものである。画面に再現された陽光が美しいのではなく、再現行為を支える光そのものが美しい。ドリー効果はそのとき、認識を生の充実感へと変貌させる。
・母と娘の着飾った衣装にも単純化の原理は働いている。それは、木陰にいても日差しを受けても存在をきわだたせる白系統の衣装に二人とも身を包んでいることである。そして母親の大きな花飾り帽や少女の髪に結ばれたリボンがその印象を助長している。
・わけてもグリフィス的なのが、母親の大きな花飾り帽子である。その帽子は、技術的な理由としては、太陽が不自然な影を落としたり、必要以上に照り映えることを優雅にさまたげるためだが、そこにはグリフィスの女優への関わり方が示されている。
・「ドリー効果」のいま一つの側面とは、最愛の女性に華やかな帽子や衣装をまとわせ、作品にもっともふさわしい光線をその周囲に散乱せずにはいられないということである。この作品で母親を演じているのは、グリフィスの夫人であるリンダ・アーヴィドスンである。
IV 差異の火花
・父親との乱闘で痛めつけられた物売りが、幌馬車の脇に戻ってくると、画面の背後に白毛の馬がつながれている。そこで、馬につい眼をとめてしまうのは、それが栗毛の馬ではなく白毛の馬だからだ。画面の推移を見守る者には、その馬にもやはり意味があったことに気がつく。物売りが少女を奪って、この幌馬車に再び戻ってきたとき、前と同じ画面が同じ構図でくりかえされるのだが、そこでは白い馬が消滅している。
・一つ目の画面に確実に存在していた要素を二つ目の画面から排除することで、時間の経過が表象されている。それは、留守中に女が出発の準備をしていたということも暗示しており、それを画面の中から馬を消し去るだけで想像させるのは、かなり高度な物語技法である。そこでは、さしせまった危険という抽象的な概念が、ほぼ同一画面の連鎖の間の差異によって物語化されているのである。ここでは、純粋形態でのモンタージュが実践されており、それが「ドリー効果」の新たな側面である。こういったモンタージュが後の並行モンタージュにつながるのはいうまでもない。
V 帰還神話の生成
(詳細略)
・登場人物が、最後に親元に戻ってくる「帰還」という幸福な結末で終わる主題は、その後、あまたの映画作品がもつことになる神話的な物語構造であり、これも「ドリー効果」と呼ぶべきものだ。
・誰もがいまだに、この 1908 年の作品から逃れられていないという絶望を回避するために、あたかもグリフィスなど存在しなかったように振舞い、その記憶喪失を自然化することが映画の歴史に他ならない。
・その映画史に挑戦しているのは、またしても映画作家たちである。ゴダールの「難解さ」やトリュフォーの「平易さ」から、コッポラの「不器用さ」やスピルバーグの「素直さ」までの歩みは、その試みがすでに始まっていることの紛れもない証左にほかならない。