F・W・ムルナウ監督の『サンライズ』(Sunrise - A Song of Two Humans, 1927) を最初に見たのは学生時代で、京橋のフィルムセンターだったことは覚えている。京橋に通い始めた頃、最初にやっていたのはヌーヴェル・ヴァーグ以前のフランス映画の特集ではなかったかと思う。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『陽気なドン・カミロ』(Le petit Monde de Don Camillo, 1951) とか、クロード・オータン・ララ監督でニコール・ベルジェが主演する『青い麦』(Le Blé en Herbe, 1953) とかを見た記憶がある。その後、無声映画の傑作の特集をやっていて、その内の一本としてみた。なお『サンライズ』は無声映画ではあるものの音楽伴奏付きで公開されたサウンド映画である。その後、DVD を購入して何回も見たし、いまでは YouTube ですら見ることがあるが、見直すたびに新しい発見があるし、見直すたびに泣いてしまうから不思議だ。
ジャネット・ゲイナーが主演しているフランク・ボゼージ監督の『幸運の星』(Lucky Star, 1929) のことはすでに記事に書いた。その映画で、主演男優であるチャールズ・ファレルがゲイナーの汚れた髪の毛を卵をいくつも割って洗った、その洗い立ての髪の毛の表現は、モノクロ映画のもっとも美しい達成を思わせたが、この『サンライズ』のラストでもそれに劣らない場面がある。ゲイナーは、突然の嵐に遭いボートが転覆して溺れて救出され、家のベッドに横たえられるが、そのとき彼女の髪がまるでリリアン・ギッシュの髪のようにほどかれて長くおろされているのを見るのである。そこにいいようのない映画的感動が存在する。もちろん、ラストでその感動を生むためにムルナウは周到に映画の画面を構成している。ほどける前のあのきっちりとまとめた、ゲイナーのいかにも古風なひっつめ髪は、なんと呼べばいいのか分からないが、明らかにウィッグだと思う。都会に出て美容院に入った場面でも、彼女はその髪をほどかれることを断固拒否する。
そのような「対比」は、「都会と田舎」「夫と妻」といった巨視的なものから始まって細部に至るまで作品のここかしこに見られる。この作品で対比されて演出されていないものなどないと言いたくなってしまうほど、ムルナウの画面構成は力強い。涙なしには見られない教会の結婚式のシーンはいうまでもないが、そういったレベルに留まらず、たとえば、冒頭の「都会の女」(マーガレット・リヴィングストン) が靴を磨かせる何気ないシーンだって、女がジョージ・オブライエンにゲイナーを殺害することを唆す場面で、その靴が泥に埋まるショットと対比させているのである。ライティングですらそうである。たとえば、妻が溺死したと思っているオブライエンが「都会の女」と争うシーンでは非常にコントラストの高い照明だが、ゲイナーが救出されたと叫ぶ声のクロースアップの直後のショットでは照明のコントラストが落とされている。
そして映画史上もっとも純粋な映画的官能であるあの市電。それはオブライエンが演ずる夫の殺意に湖水を滑るボートの上で気がついた妻のゲイナーが泣きじゃくりながら、そこを飛び降り、走りながら森陰をくぐり抜けようとするとき、突然そこにやって来て、彼女が飛び乗る乗り物である。