ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

畏怖の念、謙虚さ、覚醒

『「ボヴァリー夫人」論』の序章、特にはそこの註 (1) を読むとその謙虚さにうたれる。そこにはまず一次的な言説である「作品=テクスト」に対する限りない「畏怖」が存在する。次に「テクストをめぐるテクスト」である批評は、作品 (= 一次的言説) の「意味」を解読したり注釈を加える段階に留まる限りにおいては、「二次的な言説」たるをまぬがれていないという「謙虚さ」にもとづく認識が存在する。

 さらに「批評」が「二次的な言説」たることをまぬがれるためには、作品の意味の解読や注釈とは違った「読むこと」が必要であり、それこそがテクストの周辺としてまどろんでいるもろもろの細部を「覚醒させる」ということに他ならない。もし批評に「創造性」があるならば、それは上記の意味での「読むこと」で目醒めさせた細部を増殖させ、それらの「磁場」(= ネットワーク) を言葉のレベルとして到来させ、その場で細部同士の共鳴を促すことなのである。ここで、「磁場」という言葉は、ミッシェル・フーコーの「網目」 ≪ un réseau ≫に相当するものだといっている。なお、初期の作品 『映画の神話学』(1979) では次にあげるようなものを「磁場」として提示している。ただし、『映画の神話学』は、勢いを重視して書かれているところもあるのでよくわからないところもある。

個々の作品の範囲を越えて共鳴しあう秘かな細部の相互牽引作用や、ある種の意義深い輪郭の共有関係によって自律的にかたちづくられるもので、そこでは遠目には排斥しあうとしか見えない諸要素がその差異を差異として保ちながら一点へと収斂してゆく共犯者的な目くばせが見られる。

 

「ボヴァリー夫人」論 (単行本)

「ボヴァリー夫人」論 (単行本)

 
蓮実重彦の映画の神話学

蓮実重彦の映画の神話学