ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

汚名

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アルフレッド・ヒッチコック 監督作品の真髄というべき RKO 映画、『汚名』(Notorious, 1946) の素晴らしさは、すでに多くが語られているのでここに付け加えることはほとんどない。たぶん誰も「リアル」とは思わないだろう辻褄が合わないストーリー展開でありながら、そこには映画ならではの官能的な演出が繊細きわまりない巨匠の手つきで施されており、映画ファンならば、フロリダ連邦地裁の法廷の扉が開かれて始まるシーンから、クロード・レインズの家の玄関の扉が閉じられて終わるシーンまでのすべてを記憶にとどめているだろう。一本の映画を丸ごと覚えるのは難しいときもあるが、このような作品ではわりに容易である。というのも、全編そこかしこに忘れようのない印象的な「主題」と強烈なイメージが存在しているので、それを利用して頭の中で映画を簡単に再現できるからだ。その記憶の仕組みは『失われた時を求めて』で紅茶に浸った一片のプチット・ママレードの味覚から少年時代の記憶の全貌が一挙に浮かびあがるのに少し近いのではと思っている。

最初のシーンでは、「報道カメラ」のパンニングと「法廷の扉が開く」というイメージがあるのでイングリッド・バーグマンの父親が刑の宣告を受けてバーグマンが新聞記者にインタビューを受けるというのは容易に思い出せる。

次は、主演男優であるケイリー・グラントが「後ろ姿」のまま顔を見せないで作品に導入されているのがとても面白く、そこは忘れようがないので、イングリッド・バーグマンのマイアミの家でのパーティのシーンがバーグマンがやたらに酒を注いでまわっている場面とともに浮かびあがってくる。

その後、照明が明るくなってカメラがポジションを変えることでグラントの顔が映るのと、グラントが眠り込んでいる女性客の胸の上に空のグラスを置き、バーグマンの露出したおヘソのところにスカーフを巻いてあげる場面は忘れられないので、一晩中飲み明かした二人は酔っ払ったまま外にドライブに出たというストーリーはすぐに再現できる。

ヒッチコック 映画で「愛のプレリュード」として機能する男女同席のドライブシーンは、警官が登場する『サイコ』(Psycho, 1960) や泥酔して車を運転する『北北西に進路を取れ』(North by Northwest, 1959) とも連携してイメージを強化するので、次のドライブのシーンも忘れようがない。

その後の、たぶんアスピリンを水に溶かしたのだろう白い水の入った光るグラスの後ろにバーグマンが二日酔いで寝ているシーンは、グラントがバーグマンの視点で逆さまに映るイメージとともに強烈すぎて絶対に忘れられない。バーグマンの髪の毛が彼女の口に入っているところを覚えている人もいるだろう。その後に付属しているレコードのイメージから、バーグマンがエージェントになることを承諾したということが思い出せる。その後のスカーフが自分のウェストに巻かれていることに気がつくバーグマンの仕草も印象的である。

古風な飛行機が飛翔するイメージから、ああ、それから二人はリオに飛んだんだということがわかる。

その次のイメージは、グラントがバーグマンにキスをする場面で、ここのキスはごく短く「え、これだけ?」と正直感じたが、次にやたらと二人の長いキスシーンが続き、「そういうことだったのね」と思ったので覚えている。

その次のホテルの部屋での長いキス・シーンはバーグマンの指がグラントの耳たぶを愛撫するところが忘れられない。バーグマンは、最後の階段のシーンでもグラントに抱えられて眼を閉じたまま、一人視線劇に参加しないで、手だけで演技していた。

その後、グラントが頼まれたワインの瓶を事務所みたいなところに忘れるシーンは、「ワインの瓶」が最初に主題として登場したところなので記憶している。

その後は、「チキンが冷めた」「ワインを忘れた」「ロウソクの光」などのイメージから、ここでクロード・レインズをハニー・トラップにかける話をグラントがバーグマンにしたんだなと再現できる。

その次にあるはずの乗馬のシーンは、ここはロケーション撮影であったことから印象的である。クロード・レインズが馬を駆ってバーグマンの馬を抑えるロング・ショットは覚えている。バーグマンとレインズはここで再会する。

ここのあたりは、よく覚えていないが次にあるのは、バーグマンがすごく豪華な夜会用の白いドレスを着て、首飾りを着けてもらうところ。

それから、レインズの家の玄関が初めて映って、バーグマンがレインズの家の玄関の扉を入り、そこでヒッチコック作品に典型的な「怖い母親」を演じているレオポルディ・コンスタンチンが階段を下りてくるところのイメージが強烈である。ヒッチコック映画の「階段の主題」が始まったのだ。それから、原爆製造に関わっている仲間の一人がディナーの場所で主題としての「ワインの瓶」を指差して騒ぐところも記憶に残る。

競馬場のシーンは、バーグマンの双眼鏡に競馬の様子が映ることから。そこでバーグマンが、グラントに報告をして喧嘩になってバーグマンが涙を浮かべるクローズアップは、その涙が光るイメージで覚えているだろう。彼女はこの後、レインズと結婚することになる。

途中少し飛ばして、レインズとバーグマンが新婚旅行から帰ってきて、バーグマンがクローゼットに鍵がかかっていることに気づき鍵をレインズに頼んでもらうシーンは、次々に鍵が開けられワイン倉の鍵だけがないことがわかるイメージがある。「鍵」の主題がここで始まる。

バーグマンがレインズからワイン倉の鍵を手に入れる場面は強烈なイメージで忘れようがない。机に置かれた鍵の束から、盗んだ問題の鍵を左手に握っているバーグマンの右手にレインズが接吻し、左手に接吻しようとすることでサスペンスが盛り上がる。

その後の夜会の場面は、夜会の部屋の全景を映す俯瞰ショットからカメラがバーグマンに接近していって、さらにバーグマンの左手が鍵を握りしめているクロースアップまでをワンショットで示すという、まるで目眩のようなイメージがあり、ここを覚えていない人間は「映画を見る資格などない」と言える。その後、グラントがやってきてバーグマンが接吻のために差し出した手から鍵を受け取るシーンや、バケツに入れられたシャンペンの瓶の数が段々と減っていくシーンも忘れようがない。

その後、ワイン倉の鍵を開け、グラントが棚を調べているとき、ワインの瓶がジリジリと移動して落下した瞬間、外で見張っていたバーグマンの顔が振り返る短いインサート、グラントの顔が見つめる短いインサートとともに床にウラン原石の砂が黒々と散らばるショットは、映画ファンでなくても忘れようがない。その後、レインズが見ているところで、バーグマンとグラントが抱擁してキスするシーンも良いだろう。

レインズが鍵がないことにここでようやく気がつくというのは、ストーリー上のご都合主義だが、鍵が束に戻っているイメージと、ワインの瓶に貼られた年代の表記を順次映していくイメージも強烈で忘れようがない。その後、レインズが母親に相談するおぞましいイメージもいいだろう。

それから、バーグマンのコーヒーに毒が盛られる以降のサスペンスは省略するが、ひとつだけ指摘しておけばバーグマンが階段近くに独りで立っていて気絶する瞬間、カメラが俯瞰した部屋のがらんとした全景にアクションつなぎで切り替わるショットは、先ほどあげた群衆のなかをバーグマンの左手に握りしめた鍵へと接近していくショットとともに「対」で記憶すべき優れたショットである。

毒を飲まされ体が衰弱してしまい二階のベッドに臥せていたイングリッド・バーグマンをケーリー・グラントが発見し、彼女をなんとか起こして、動けないバーグマンを抱きかかえながら階段をゆっくり、ゆっくり降りていくところが、この映画のクライマックスである。つまりヒッチコック映画の「階段の主題」がクライマックスになっている。ここでは、拳銃すら視覚的に登場することはなく、ケーリー・グラントがそれを所持していることが言葉とポケットに右手を入れる演技だけで暗示されている。衰弱したバーグマンはグラントに左手で抱きかかえられ階段を下りているが眼は閉じられたままで手だけで演技をしている。クライマックスであるにもかかわらず、階段から人が落下するような視覚的に派手な演出は一切なく、四人の集団がゆっくりと階段を下りていくのを示すだけである。この場面の直前には、グラントが救出のために階段を一段飛ばしで二階に上がっていくところが示されるが、それが下りるときの緩慢さを更に強調する。しかも、グラントが独りで上るときは、階段のステップは、はっきりと明示されているが、降りるときは複数の人物によって隠され、キャメラ・ポジションの違いで階段のステップは視覚的に抑制されている。このため、階段の足元の土台部分がほとんど明示されず、人物たちが降りていく動作に視覚的な不安定感が生じており、それによってサスペンス (「宙吊り」が原義) が高まることで、クロース・アップと一階から四人を見あげる原爆製造の一味への俯瞰を中心とする、これら人物間 (バーグマンを除く) の視線劇を効果的に演出している。

以上、映画が良くて記憶に残る優れたショットさえあれば、ストーリーなんかいくらでもそのショットがキーになって思い出せる二次的なものに過ぎないということ。

 

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