ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

またそこか

英語リスニングのコツについての「紋切り型辞典」の項目のひとつに、「内容語」は強く長く発音され「機能語」は弱く短く発音される、というのがあって、そのこと自体が間違っているといいたいわけではないが、だからといって「内容語」の方が重要だからそういった発音の傾向になるんだという説明は、じゃ「機能語」は重要ではないのかと言いたくなる。

機能語は英語のラングとしての「制度」を形成するために不可欠な要素である。そしてそれが「不可欠」であるにもかかわらず、「制度」があたかも自然なことであるかのように滑らかに機能をし始めると「透明化」を始め、それが自然でもなんでもない初学者に聴き取りにくい感じを与えるのである。

映画はたかだか 120 年強の歴史しかない「新しい」メディアであり、そういった「透明化」がどういう過程で進行するかを確認しやすい。何度も同じ例を出して申し訳ないが、下のクリップで実際にどこにショットの切り替えがあるかを確認して、それが「透明化」するためにはいかに高度で繊細な配慮が必要かということをまず自分の眼で探ってみることが必要である。英語の「機能語」が聞き取りにくいのと同様に、おのれを透明化してしまう「制度=体系=構造」はもっとも見ることが難しいもののひとつである。

「欠如」という不可視なものでさえ「構造」を決定づける要素になりうる。ジル・ドゥルーズが構造主義について書いていた短い文章『何を構造主義として認めるか』には、

零度なくして構造主義はない。

という極度に短い文章がある。これは比較的簡単に理解できることかもしれない。たとえば、「私」が持っている「財布」を考えてみる。そこには、馬鹿にできない現金、銀行のATMカードすべて、クレジットカードすべて、suica 、家の鍵、その他一式が入っているとしよう。そして、その財布を「私」は電車の中で掏られたらしい。それを電車のホームに降りて初めて気がついた。そうすると「財布」は「私」にとって不可視の「欠如」である。「私」の頭の中にある「財布」という記号は、具体的に指すべき特定の位置を持たない「浮遊するシニフィアン」となっている。suica がないので駅の改口を出られないことから始まり、ありとあらゆる状況がその「財布」を「私」に指し示す。そういった「財布を必要」とする数多くの状況は、「過剰なるシニフィアン」となって「財布」の意味がなんだったのかを「私」に突きつける。そういった、あらゆる状況に乗り移って不在の財布を指し示す運動自体が、「私」と「私を取り巻く世界」の「構造」の物語を生成するのである。こういった「掏られた財布」のようなパラドキシカルな記号が「零度」である。

「零度」が動きまわることがなくなり、固定されてしまうとシステムは変化がなくなり、退屈で、しばしば人を苦しめるものにさえなる。動かない「零度」として代表的なものは遠近法絵画の「消失点」である。「消失点」は、現実には存在していないという意味では空虚なものでありながら、絵画のすべての要素が消失点を指し示しているという過剰さを持つパラドキシカルな存在である。そのパラドキシカルな側面は、現実に存在していない虚構の点のはずでありながら、作成された絵画の平面の中には実際に存在するということに表れている。

人が映画を見てしばしば「リアル」だという、その寄る辺ない退屈さを感じさせる表現は、細部を無限とも言えるほど有している作品の多様で運動し続ける関係性を、一般性の領域のもっとも粗い区分といえる「真=偽」の「真」を消失点として、多様な「細部」がすべてそこに向けられていると語っているのである。つまり、抽象性の中でももっとも粗雑で、ありもしない「真」を仮定し、現実の活き活きとした細部の群れがすべてそれに従っているとみなすこと。そういった不可視の前提に支配されてしまうことは、しばしば世の中を退屈にし、他人のみならず本人も苦しめることがある。「不可視」であるから無いように振る舞うのでなく、「不可視」であるからこそ視線を鍛える必要があるのである。

生物学的性差をそれ以外の領域にも拡張し、固定化してしまうことがジェンダーの問題に繋がっているのは、すでにいろいろ言われていることである。そこで一つ言うべきことは、男が上になって、女性が下になる性行為を「正常位」と呼ぶのはどうだろうか。対等に接吻しあう関係性から始まって、いくらでも多様な関係性が存在する中で「正常位」を零度として固定し、そこにすべての行為が支配されるのが、男女の恋愛とは思えない。

 

ドゥルーズ・コレクション1: 哲学 (河出文庫)

ドゥルーズ・コレクション1: 哲学 (河出文庫)