ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

乳と卵

年末に本の片付けをしていたら、文庫本が出てきたので、久しぶりに読み直した。

作品の中に出てくる「細部」はそれそのものを表現していると同時に、それとは異なる何かを想起させることがある。この作品でいえば、巻子が緑子の頭についた玉子を拭ってやるためにズボンの後ろのポケットから取り出す「赤いハンカチ」は、もちろんそれそのものである小型の四角い布を表現していると同時に、一葉のよく知られた作品の「赤いハンカチ (紅の絹はんけち)」をも想起させる。ではなぜ、石原裕次郎主演の映画のタイトルを想起させがたいかについて積極的な理由を見いだすことは難しいが、あえていえば「巻子」や「緑子」の名前を始めとして一葉と彼女の作品への目配りが誰にでもすぐに分かるほど明らかだからだろう。

想起させる対象は別の作品ばかりではもちろんない。「玉子」は同じ作品の別の場所で出てくる別の「玉子」という文字の連なりにも対応している。その「玉子」はもともと冷蔵庫にあった「賞味期限」が近づいた「玉子」であり、そのうちの十個入り「パック」の分は夏子によって廃棄するという口実であらかじめ冷蔵庫から取り出され、用意周到に流しの脇に置かれたものである。

しかし、想起させる対象はそれだけではない。「玉子」は作品の題名にも中にもあらわれる「卵」にも対応している。「卵」の漢字は「卵形」という例外を除き、人間の女性の「卵子」の意味でしかこの作品では使われていない。そして「賞味期限を迎えた玉子」は女性の「排卵」を想起させることはいうまでもない。さらに緑子にこれから初潮が来ようとしているのだし、緑子が書いた文章には、ナプキンは「うちの家にはない」とあるので、巻子の生理がとまっていることを想起させる。したがって、緑子と巻子が同時に「玉子」を頭からかぶることは、緑子には初潮が、巻子には止まっていた生理が同時にやってきたとことを想起させるのである。

「玉子」まみれになるスペクタクルなシーンがこの作品のクライマックスであることは言うまでもない。前にも同じようなことを述べたが、個人的に一番興味があるのは、作品がクライマックスを迎えるにあたって、どのように周到な準備 (主題体系と説話構造を緊密に対応させること) をしてきたかという点を読むことにある。そういう意味では、この作品、派手なスペクタル性や饒舌な要素がある一方で、「賞味期限を迎えた玉子」を「排卵」に結びつける発想はやや安直で「驚き」を生産しているとまでは思わなかった。

 

乳と卵 (文春文庫)

乳と卵 (文春文庫)