トッド・ヘインズ監督の『キャロル』(Carol, 2015) は、ここ数年で作られた映画の中でお気に入りの一本。決して、偉大な映画などではないが、かといって世の中に掃いて捨てるほどある、偉大であろうとしながらそれになりそびれた映画でもない。キャロル (ケイト・ブランシェット) が夫に「わたしたちは醜くくないはずよ」と告げるように、『キャロル』はただ映画として美しくあろうとしており、じっさい最近のアメリカ映画の中では僥倖のように美しい作品たりえている。トッド・ヘインズの美しさは、偉大であることよりも美しくあるために透明な演出を目指したジョージ・キューカー監督や、美しさのために蔑視に耐えねばならなかったダグラス・サーク監督の演出のようである。1934 年のヘイズ・コード施行の前後では、細部において同性愛をほのめかす描写が存在する作品が、女性が男性の役割をするという形態がほとんどであったとはいえ存在していた。たとえば、マレーネ・デートリッヒの『モロッコ』(1930) や、グレタ・ガルボの『クリスチナ女王』(1933) や、キャサリン・ヘップバーンの『男装』(1935) などを示すことができる。その当時は映画館に通う客の主体は女性であり、彼女たちにとって映画館は普段とは違う特別なお洒落をして出かける特別な場所であった。トッド・ヘインズのこの映画は、このスタジオ・システム確立以前の映画のことを思い出させてくれる。
50 年代のデバートのおもちゃ売場の再現。骰子一擲のキャロルとテレーズ(ルーニ・マーラ)の出会いの一瞬。偶然、顔さえ知らない他者に突然、否応もなく惹かれ、適切にそれを表現する言葉すら見つからず、ただ自分の胸の中で反復して肯定することしかできなくなること。その比較を欠いた「絶対」というべき出来事をこの映画は視線劇によって見事に表現している。テレーズがキャロルをカメラで撮影するとき、「視線」の代替としてのその光学機械までが、優しいシャッター音をたてている。
視線劇の構図・逆構図といっても、古典的デクバージュではなく、前景に人物を入れて撮影する、いわゆるナメる撮影が多い。ジャン・リュック・ゴダールが「古典的デクパージュの擁護と顕揚」で触れているように、こうしたナメの撮影は、前景の後ろ姿の人物の秘密を観客に「ほのめかす」役割が存在している。そして、後ろ姿を映すということは、まずその人物を振り向かせることによって映画に運動を導入するものであるが、この映画では、さらに後ろ姿の人物の肩に他の人間が手を触れることが効果を上げている。実際、キャロルはテレーズの肩に数度手で触れるし、テレーズも自分の部屋に訪れ、後ろ姿で泣いているキャロルの肩に手を触れる。フルショットでの後ろ姿は、キャロルを演じるケイト・ブランシェットのものが多いが、テレーズ (ルーニー・マーラ) がパーティを抜け出してキャロルの元へ向かっていくとき、ジョー・スタッフォードの “No Other Love” がバックに流れ、テレーズを一瞬だけルドルフ・マテばりに仰角で示すショットがあり、このあとテレーズの後姿がフルショットで映されるところはハッとする。その後のキャロルとの再会のシーンのスローモーションはサービス・ショットというべきものにすぎない。