フランク・ボゼージ監督の『幸運の星』(Lucky Star, 1929)。
YouTube がなぜ存在しているかというと、それはもちろん、この映画を世界中の人々が見て泣くためにきまっている。あらかじめ断っておくが、この映画を見て泣くのに抵抗することは、この世でもっとも無駄な試みである。素直にハンカチを用意しよう。リュミエール兄弟によって始まった映画は、この作品が作られたときにはまだ 35 年も経っていないというのに、サイレント映画は信じられないほどの高度な繊細さとともにクライマックスを迎えた。その時期にメロドラマの巨匠フランク・ボゼージがサイレント映画の最終期を飾るに相応しい絶妙な演出で観客の涙腺をくすぐったのだ。おまけに名女優ジャネット・ゲイナーは見るだに可憐で、愛らしい。その上、相手役の男優チャールズ・ファレルはとてもかっこ良い上に、なんという上品さであろう。この最強のトリオに対していかなる抵抗もできるわけはなかろう。
ジャネット・ゲイナーとチャールズ・ファレルが共演する映画が、全部で 12 作品も作られたことからも当時、このカップルにいかに絶大な人気があったかが窺える。有名な『第七天国』(1927) は、現存する小津作品の中で最も古い『学生ロマンス 若き日』(1929) でも下宿部屋に作品のポスターが貼ってあったり「質屋」を「第7天国」と洒落たりすることで引用されているが、シリーズの第 1 作目でしかない。12 作品全部を下記に挙げておく。
- 『第七天国』(7th Heaven, 1927) フランク・ボゼージ監督
- 『街の天使』(Street Angel, 1928) フランク・ボゼージ監督
- 『幸運の星』 (Lucky Star, 1929) フランク・ボゼージ監督
- “Happy Days” (1929) ベンジャミン・ストロフ監督
- 『サニー・サイド・アップ』(Sunny side Up, 1929) デヴィッド・バトラー監督
- 『友愛天国』(High Society Blues, 1930) デヴィッド・バトラー監督
- 『再生の港』 (The Man Who Came Back, 1931 ) ラオール・ウォルシュ監督
- 『春を讃えよ』 (Merely Mary Ann, 1931) ヘンリー・キング監督
- 『デリシャス』 (Delicious, 1931) デヴィッド・バトラー監督
- 『第一年』 (The First Year, 1932) ウィリアム・K・ハワード監督
- 『嵐の国のテス』 (Tess of the Storm Country,1932) アルフレッド・サンテル監督
- 『紐育の口笛』 (Change of Heart, 1934) ジョン・G・ブリストーン監督
リストを確認すればわかるように、最初の3作だけがフランク・ボゼージ監督のもので、これらは「絶品メロドラマ」3本立てである。最初の二作とF.W.ムルナウ監督の『サンライズ』(1927) の出演が評価されてジャネット・ゲイナーは、初代のアカデミー主演女優賞に輝いたことは周知の通りだと思う。『幸運の星』は、このシリーズの最後のサイレント作品でもあった。
『幸運の星』は、多くのサイレント時代の作品同様、いったんは永遠に失われたと思われていた。1980 年代の後半、作品のタイトルが示すかのように、アムステルダム映画博物館にサイレント版の 35mm プリントが残っていることが確認されデジタル修復された。1990 年のイタリア映画祭でプレミア・リバイバルされたのを皮切りに、故鈴木清順監督も参加され、20 本以上の清順作品が海外で初めて紹介された 1991 年のロッテルダム映画祭では、他の新作を大きく引き離して一般投票の第一位に輝いた。
この映画は、チャールズ・ファレルが戦争(第一次世界大戦) で負傷し、歩けなくなって故郷に戻ってきたあたりから、画面に否応なくぐいぐいと惹きつけられてしまう。チャールズ・ファレルが、貧しい田舎のミルク売りの娘を演じているジャネット・ゲイナーに小さな蓄音器をプレゼントするあたりからだが、なんといっても圧巻なのは、ファレルがゲイナーの汚れた髪の毛を卵をいくつも割って洗ってあげるところである。その洗い立ての髪の毛の表現は、モノクロ映画のもっとも美しい達成ではないだろうかと思わせる。どうして、映画はこんな素晴らしいものを見せてくれるのだろう。思えば、女性のクロースアップを撮るときに被写体の後ろに見えないようにバックライトをおいて髪の毛を輝かせるのは、映画の創始期からすでに行われていた。「聖林」で撮影が始まった頃は、野外でカリフォルニアの強い陽射しのもとに撮影していた映画人たちは、それが主にスタジオの中で撮影されるようになった後でも、陽光に燦めく女性の髪の毛の美しさを記憶から消し去ることなど、とうていできはしなかったに違いなく、その考古学的記憶がこの場面でもまさに活きいきと息づいている。
そんな素晴らしいシーンを見せてくれたことだけでも充分すぎると思っていたら、最後の雪のシーンがこれまた途方もなく、素晴らしいのである。フランク・ボゼージはメロドラマの「巨匠」ではなく「神様」だったんだということがはっきりとわかるだろう。では、メロドラマとはなにか。前述したロッテルダム映画祭でこの作品を見た蓮實重彥はその文章にこう書いている。
メロドラマとは悲しい恋愛心理劇ではなく、胸を衝くアクションの劇なのだ。